日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎バナナの放射線量は高いのか?

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令和三年四月十六日撮影

◎バナナの放射線量は高いのか?

 日本政府が「福島原発の処理水」を二年後くらいに放出することを決定した。

 そのニュースを観て、最初に思ったのは、「日本の技術は凄い」ということだ。

 「おいおい。セシウム完全除去、トリチウムを基準の7分の1のレベル(数字はうろ覚えで相違があるかも)に落とすなんて、世界のどの原発でも成し遂げていないのではないか?」

 米国はもちろん、隣国に至っては、福島の数十倍から数百倍に達する汚染水をダダ洩れに垂れ流しているのではなかったか。

 ALPSという装置で浄化処理をするようだが、この装置はどれだけ性能が高いのか。

 

 昨年、隣国では日本の海産物と自国のそれとの線量を比べる調査を行ったが、その数値は「ほとんど変わらない」という結論だった。隣国だけに、ほんの少しでも自国を上回っていれば、さぞ大騒ぎしただろうに、「変わりない」と表現したところを見ると、間違いなく隣国の線量の方が高かったのだろう。その証拠に数値を一切報告しなかった。

 

 これに比べ、欧州では、チェルノブイリの経験があるから、さすがに科学的根拠に基づいた見解を述べる人が多いようだ。

 「国際的に設けられた基準の下であれば、他国の原発と変わらない、または低いということだから問題は無い」と言う人が沢山いる。

 実際、日本の放流がダメだということになれば、世界中の原発の処理を総て調べ直すことになる。ほとんどが福島の浄化水準に満たないのではないか。

 

 さて、様々な意見の中で、興味深いものを目にした。

 「日本の処理水は、バナナの線量よりも低い」というものだ。

 バナナは概して、放射線量が高い物だということで、「これを食べているなら(食べられるなら)、問題は生じない」とする意見だった。

 バナナの放射線量が高い?そりゃホントか?

 

 とりあえず身の回りの物で調べてみることにした。

 スーパーに行き、バナナを二房購入し、線量計をかざして見る。

 かなり大雑把な調べ方だが、線量計は敏感だから、数値そのもののの信頼度はともかく「高い」か「低い」かくらいは分かる。

 実際に調べてみると、問題視するような値では無かった。

 よく考えてみると当たり前だ。

 これはフィリピン産で、欧米で食べられているバナナとは、産地が異なるからだ。

 ちなみに、0.2~0.5μSv/hなら、ごく普通の自然線量の水準だ。

 これがスマホを含む電気製品なら、二倍くらいに線量が上がる。

 大型電機や配電盤の近くなら、0.12μSv/hになったりする。

 世界標準は、0.21μSv/hの上下付近だと記憶しているが、多少上回ったところで、特に問題は無い。要は「放射線量に加え、放射線に晒される(被ばく)時間」との関係により「影響の強さ」が構成されるから、幾らか高くとも少しの間であれば問題ない。

 

 ちなみに、事故から四年後くらいからコロナ流行前まで、東北各地の線量を計測して歩いた。

 実際に歩いてみると、同じように疑念を持ち、各地の線量を計測する人が沢山いた。

 五年前までは、内陸・沿岸を問わず0.50μSv/hの線量を示す地点が割と東北各地にあった。帰還困難区域ならひと桁上の数値になるわけだが、区域の外でも、1を超える地点が何か所か存在した。

 当時は少なからず戦慄を覚えたものだが、数か月後に同じ地点を訪れると、今度はがたっと線量が下がっている。

 要するに被爆粉塵が雨風によって溜まった地点の線量が短期的に高くなっていたのだ。

 これからは、あくまで経験上の話だが、多少線量が高い地点があっても、すぐに低下する場合は、あまり気にしなくともよいと思う。

 もちろん、それが人通りの多い場所なら、役所に告知して除染して貰えばよいだけのことだ。また数か月経っても高めだったら、やはり除染が必要になる。

 迅速にかつ適切に判断し、対応すればよいのであって、「こんなに線量が高い」と大騒ぎするほどのものでもない。

 たまに「ここにこんな放射線量の高い場所が」とユーチュ-ブで騒ぎ立てる人がいるが、日本を貶めたい国々に「材料を与える」だけの意味しかない。

 継続して線量を計測している人が何百人もいたし、今もいるだろうが、「もし発見した場合は、速やかに役所に届けている」人がほとんどだろう。

 問題を見取ったなら、「速やかに処置を施す」のが最も適切な対応ということだ。

 けして騒ぎ立てることではない。

 もちろん、政府が嘘を吐いていないかどうかを確かめる必要があるから、継続して調べる必要があるのは当然だ。

 三年前くらいから、内陸・沿岸とも0.02~0.04μSv/hの地点がほとんどで、帰還困難区域以外の除染はかなり進んだと評価できる。

 

 隣国の非難は、明らかに非難批判それ自体のための批判だ。自国で垂れ流している汚染水のことには口を噤み、他国のことばかり問題視している。

 現時点で、隣国の原発から出ている放射線濃度を調べて置かぬと、自国の不始末を日本のせいにされかねない。

 歴史問題に関するイカサマは既に「ネタが割れた」から、今度は原発処理水を「新しいネタ」にしようという心づもりなのが丸わかりだ。

 隣国人は報道のヘッドラインだけ読んで大騒ぎをするが、自国原発の放出している汚染水の線量すら把握していない。

 とりあえず、今度は隣国産のパプリカや海苔から線量の計測を始めることにしようと思う。まずは証拠固めから。

 

注記)一発殴り書きで推敲や校正はしません。よって表現上の不首尾はあります。またこれは日記であり感想文ですので、具体的なデータは官公庁の公表値をあたると良いです。

 

訂正)福島の「処理水」のトリチウム濃度は、「基準の7分の1」という報道だった。

 ちなみに、韓国の原発が法スつしている「汚染水」の「百数十分の1」の濃度になるということ。

 こういうのは繰り返し、データを公表した方がよいと思う。

 自分たちの不始末を「日本のせい」にするのが、特技なわけだし。

 

追記1)原発自体はすぐにやめた方が良いと思う。

部屋の中にトイレを作るのと同じで、「無くならず溜まって行くだけ」だ。

現状の問題解決には放出も仕方ないが、「今後増やさぬ」ことは可能だ。

◎他地域では食べない・食べられない料理

他地域では食べない・食べられない料理

 病棟で横になっていると、暇で暇で仕方が無い。

 そこで、看護師に「あんたの故郷の名物料理は何?」「他の地域の人が知らない料理はあるのか?」と訊いている。

 

◆オヤジA(北海道出身)

 「蟹の外子の醤油漬けですね。たぶん、地元以外では食べられないと思います」

 蟹には外子と内子が出来るが、外子は茹でて食べてもあまり美味しくない。ところが、しょうゆ漬けにすると、蟹本来の味が引き立つそうだ。

 当方は実家が商店だったので、卵が殻からはみ出した蟹を食べたことがあるが、身ほど美味しいものではない。

 醤油漬けはご飯に載せて食べると美味しいそうだ。これは想像がつく。辛味付けにしたら、明太子より高級感があるのではないかと思う。

 問題は新鮮な蟹が手に入るかどうか。

 

◆三十台青年(栃木出身)

 「何と言っても『しもつかれ』ですね。どろどろの料理ですが、給食にも出ます」

 「どろどろって、もんじゃ焼きみたいな?」

 「そうです。焼きませんけど」

 「それじゃあ、まるでゲ※みたいな感じ?」

 「ええ。地元でも食べられない人が多いです」

 ネットで引くと、「見た目がゲ※」で、「味もゲ※」と書いてあった。ゲゲ。

 

◆オヤジジイ患者(岩手出身:当方だが)

 「俺の田舎じゃあ、『かっけ』だな。蕎麦と麦があって、粉を打つが、細く切らずに叩き伸ばして四角く切る。麵にする前の蕎麦、うどんを薄くした食い物だ」

 二戸市周辺が発生地で、南限が当方の実家付近らしい。

 十キロ先の旧盛岡市内でも、あまり食べられない模様。

 

 食文化は滝沢市辺りに南北の境界線がある。

 雉蕎麦、かしわ蕎麦を好んで食べるのも、そこから北。

 (続く) 

 

 この「食い道楽」路線は割と面白い。

 画像や動画を作れれば、ばえる(もう死語化してるらしい)と思う。

 

 いずれも一度は食べてみるべきだが、「もんじゃ焼き」よりドロドロしたものは果たしてどうか。ううーん。

 

◎今日の読み方クイズ(4/15) 「紫陽花」

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◎今日の読み方クイズ(4/15) 「紫陽花」

 エレーベーターの中に入ると、この日はいつもの「四文字熟語クイズ」ではなく、「難読漢字クイズ」だった。

 なるほど、このパターンもあるわけだ。

 でも、これじゃあ、詰まらんな。

 

 しかし、「紫陽花」じゃあ、変化させられない。知っているかいないかの違いしかない。テレビのT大ナントカクイズと同じで、知識の量を単純に比べても面白くもなんともない。違いは机の前に座っている時間だけ。

 そこで、無理やり穴埋め問題を考えてみる。

 「▢陽花」「紫▢花」「紫陽▢」

 ウーン。出来るのか、これ。

 

 車まで歩いたが、どうにも出て来ない。

 そもそも「紫陽」ってどんな意味なの?

 ネット辞書を引くと、漢語では「紫」が「嘴」と同じ発音で、「鳥の嘴のような紫色」のことを指すらしい。

 え。でも何の鳥?

 「嘴が紫の鳥」なら、ヒヨドリ他複数あるようだ。

 でも、いずれにせよ、「その鳥の色に似ているから紫陽花になった」ということだな。

 おお、こりゃ調べてみるもんだ。

 

 直接的に「紫陽花」の語源を調べると、「唐の詩人・白居易が招賢寺というお寺を訪れた時にそのお寺にあった紫色の花を紫陽花と名付けた」とある。

 ただ、白居易の見た「紫色の花は非常によい香りだった」と言うことから、実際の紫陽花とは違う花だったようだ。

 この白居易の「紫陽花詩」の漢字に日本の「あじさい」という読みを充てて広まったのが「紫陽花(あじさい)」の漢字の由来ということだ。

 

◆「紫陽花  白居易」(『白子文集』)

 何年植向仙壇上  

 早晩移栽到梵家  

 雖在人間人不識  

 与君名作紫陽花  

 <読み下し文>

 何れの年にか仙壇(仙境)のほとりに植えたる

 いつか移しうえて梵家(寺)に到れる

 人間に在りといえども人識らず

 君のために名づけて紫陽花となす

 

 では日本語の「あじさい」の語源は何か。

 あじさいは「あづさい(集真藍)」がなまったものとする説が有力視されており、万葉集ではすでにあじさいに「味狭藍」「安治佐為」などの漢字が充てられた、ということだ。

 ふーん。かなり昔から生えていたわけだ。

 ネット辞書は怪しいことが多いが、この辺までは信用して良さそうだ。

 

 そう言えば、若かりし頃、短期間だけ付き合った女子が高円寺に住んでいたので、線路沿いにある喫茶店でお茶を飲んだことがある。

 まだ友だちになって間もなくのことだったから、「趣味は何か」とかめいめいのことについて尋ね合った。

 「好きな花は何かしら?」

 確か六月頃で、自室の前に紫陽花が咲いていた。

 そこで、とりあえず「紫陽花かな」と答えた。

 ま、単純に「少し前に見た」ということ。

 (二十歳前後の若者が花に興味を持っているわけないだろ。)

 するとその女子は、ちょっと眉を顰めてこう言った。

 「紫陽花が好きな人は移り気だって言うわね」

 しーん。

 しかし、そいつは「花言葉」であって、人格とは関係ない。

 きれいなものを「きれいだ」と言ったら問題あるのか?

 

 こういう感じの「枠に嵌めようとする」発想は、当方の怒りの炎に火を点ける。目の前で血液型の話をされると、思わず山ほどの反論と皮肉をぶつけてしまう。

 「羽柴秀吉はO型だった」

 「羽柴秀吉の手相はこうだった」

 オメー。それを「一体誰が見た」というわけだよ?

 結論を書くと、やっぱりその女子とは三か月と持たなかった(大笑)。

 大体は三か月で振られる(ため息)。

 

 例によって、かなり脱線した。

 さて、冒頭の穴埋めクイズだが、「▢陽花」で「太陽花」を捻り出した(もちろん、「向日葵」の別称)。

 辞書では「紫▢花」で「紫蘭花」。紫蘭はラン科の植物で、春に咲く花らしい。

 中国には、紫陽県という土地がある。

 紫・陽・花で出て来るのはそれくらい。

 

 さて、今日の話の中で、唯一、使えそうなのは、このフレーズだ。

 「紫陽花の紫は、嘴と言う字に通じる。中国でこの字が充てられるようになったのは、この花がヒヨドリの嘴の色に似ていたからだんだよ」

 やや怪しいが、とりあえず他人に「へえ」と言わせることが出来るかもしれん(言い方にもよる)。

◎煙玉の周縁(一年前、十二年前の振り返り)

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令和二年四月二十七日撮影

◎煙玉の周縁(一年前、十二年前の振り返り)

 画像は昨年のもの。雨の日だったので、水蒸気または水煙に光が反射して、白い球のように写る場合がある(自然現象の煙玉)。しかし、二枚目のものは「説明のつかない煙玉」である場合がある。

 そこで、過去に撮影した「説明のつかない煙玉」とを比較してみることにした。

 こちらは、必ずしも自然現象とは言えぬが、こういう場合、他の個所にも変異が生じる。簡単に言えば、このケースでは人影が出ている。

 ただ、こういう画像は時間の経過と共に変化する。

 十二年間での変化は、当初、割と鮮明に写っていたものが薄れる一方で、新しいものが顔を出したということだ。

 学校は煙玉や人影が出やすい場所なのだが、こういうものが出たからと言って、何か問題が生じるわけではない。簡単に言えば、「自己都合で出ているだけ」ということ。何ら特別な現象ではないので、殆どの場合、気にする必要はない。 

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平成十九年撮影

 

◎「お迎え」への対処(575)

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令和三年四月十三日撮影

「お迎え」への対処(575)

 「あの世」の者が自分のことをどのように眺めているかを知ると、間接的に「今の自分自身が置かれた状態」を知ることが出来る。

 この場合の「状態」とは、「霊魂の状態」という文脈だ。

 身体の状態は病院で確かめればよいが、「自身の魂がどれだけあの世に近いか」はそこでは分からない。

 これまでのところ、「ひとに死期が迫れば、それを悟った幽霊がそのひとの周りに集まるようになる」ことが分かっている。そこで、幽霊側の関心の持ちようにより、自身が死にそうかどうかを知ることが出来ることになる。

 そうなると、幽霊がいるところに行き、自分と幽霊たちの様子を観察すればよいことになる。

 そこで、お寺や神社で自身を撮影するようになったのだが、光の関係と、受け取る側の感度の問題で、幽霊を察知出来たり出来なかったりする。

 この場合、最も簡単なのは、ガラスに自身を写してそれを撮影する方法だ。

 カメラは、人間の可視域よりも感応域が広いので、赤外線側に跨った存在を写せることがある。

 またガラス映像の場合、「反射光が二重に交錯する」という条件が加わるので、直接写すより捉えやすい。

 ここまでは、過去五年超、数千枚に及ぶ撮影の成果だ。

 

 だが、この先が問題だ。

 幽霊の存在を検知したとして、それがどのように関わろうとしているのかをどのように見極めるのか。

 とりわけ、「お迎え(死神)」に当たる性質の者を、どのように遠ざけるのか。

 これがまだ残っている。

 

 ひとの周りには、常に複数の幽霊が纏わりついている。

 多くはそのひとの感情の態様に反応して引き寄せられた者のようだ。

 私の肩や腰に手を掛け、あるいは抱き付いている幽霊の姿が時々写るのだが、だからと言って別段、特別なことが起きるわけではない。

 幽霊を引き寄せる原因となった「心持ち」を解消させれば、その幽霊の方から去って行く。

 ここでひとまず前提に戻る。

 肉体が滅んだ後に、意識が一定期間残るのは確実だ。かつ、物的な存在でもある。

 眼に見えずそれと認識し難いから、知られることが無かったというだけで、何らかの媒介物質が存在し、霊的存在を成り立たせている。

 その場合、怒りや恨み、悲しみのような負のエネルギーが「霊的なもの」を凝集させる効果があるようだ。

 要するに、幽霊の求心力は悪意や執着心・こだわりによってもたらされているのではないか。

 それなら、ひとが悪意を捨てれば、幽霊が共感することも無くなる。

 適宜、気分転換することで、悪縁が長く留まることがなくなる。

 ごく普通の幽霊なら、こういう対処法で良い。

 

 だが、普通の幽霊と「お迎え(死神)」は少し「質が違う」と思う。

 かつて私の前に現れた二人組の「お迎え」は周囲の景色が黒くなるほど、空間を歪めていた。

 一瞥で「これは疑いなく自分を連れて行こうとする者だ」という確信があった。

 その圧力たるや、「過去に観た最も怖いホラー映画」など足元にも及ばぬほどだった。

 あのような存在から、どうやって逃れられるのか。

 

 ひとつのプランは、やはり「先んじて検知し、掴まれぬように牽制する」というものだろう。

 「自分はお前のことが見える」「見ることが出来る」と宣言する。

 「手を触れられる距離には入るな」と命じる。

 入りそうになったら、「ご神刀で切る」。(これは相手にとってかなり嫌なことのようだ。)

 今のところ、これである程度の抑制が可能になるようだ。

 もちろん、ひとは必ずいずれは死ぬ。「身体機能の劣化」は避けられぬから、死の到来を止めようとしても止められなくなる時が来る。

 老病死は必然だから、せいぜい幾日か死期をずらすことしか出来ぬかもしれぬ。

 だが、数日、数週間の延長が、そのひとにとって大きな意味を持つ場合もある。

 

 

 画像は火曜日の通院の帰路、神社に参拝した折のものだ。

 私は自分の背後に「大きな女」がいると思う。

 もちろん、この時期だけに、鮮明に写ることはなく、ごく薄らとした影だけだ。

 これは他人には見えぬし、仮に見えてもそのひとにとって左程の意味は無い。

 専ら私に関わろうとする者だから、それも当然だ。

 「大きな女」はいつも同じ外見をしており、頭が天井に着くくらいの身長に黒いコートを来ている。

 数か月前から、ずっと背後に立ち、様子(頃合い)を見計らっているのではないかと思う。

 

 居間の中央に立たれた時の威圧感は凄かった。

 悪霊のアモン、イリス(いずれも仮称)については、「敵視せず、同じ列に立つ」ことで、まったく差し障りが生じなかったが、彼らとは少し性質が違う相手だと思う。

 ま、まだ鮮明ではなく、差し迫った段階ではない。

◎夢の話 第950夜 父母と

◎夢の話 第950夜 父母と

 14日の午前五時に観た短い夢です。

 

 我に返ると、郷里の自室にいた。

 ここは三十五年前から倉庫になっている。

 だが、今は昔と変わらぬ様子。

 ここで、自分が夢の中にいることを悟った。

 「ははん。これは夢だ。俺は今、夢を観ているのだ」

 

 コンコンと扉を叩く音が聞こえ、部屋に人が入って来た。

 父と母だった。

 俺は先に母親の方に眼を遣った。母は二年以上前に亡くなっているからだ。

 「お袋。帰って来たのか」

 母はまだ五十歳台の頃のよう。それから六十歳頃までが、比較的持病の状態が軽く、すっきりしていた。

 すると、父が俺に言った。

 「お前はコイツのことが見えるのか。それなら、新宅さんのところの嫁さんと同じだな」

 新宅は祖父の本家だ。そこにも俺のような変わり者がいるらしい。

 

 しかし、この話の流れなら、父も母のことが「見えている」ということになる。

 一瞬、考えさせられたが、すぐにその理由が分かった。

 「なるほど。親父の認知症が進んで、魂が自由に動けるようになったということだ」

 知能が衰えた分、その統制が緩くなる。夢と現実の違いを認識し難くなる。

 今の父は常時、「夢の中にいる」心持ちだろう。

 

 「親父は今、施設のベッドで寝ているんだよ。そこから魂だけ抜け出て来たというわけだ。施設まで四五キロしかないから、ここに来るのは簡単だろ」

 「ははは。馬鹿を言ってろ」

 昔から父は「あの世も幽霊も存在しない」と言っていたっけな。

 

 母は幽霊で、父は幽体だが、家族だから会えたことの方が嬉しい。

 コロナのせいで、父にも面会出来ない状態だものな。

 

 ここで俺は母に声を掛けた。

 「お袋は変わりなかったか。苦しいことは無いのか」

 すると、母は生前と同じ答えを返して来た。

 「大丈夫。何ということもないよ」

 母はすっかり生きている時のままだった。

 

 「お前の方は大丈夫なのか」と父が訊く。

 「あの世がだいぶ近くなって、あっちの仲間が見えるようになって来た。他の人の後ろに誰が立っているかも分かるようになったから、今はなるべく人に会わぬようにしている。もはや隠遁生活だな」

 すると父は笑いながら従前どおりのことを言った。

「幽霊なんてものはいない。本当に怖ろしいのは幽霊ではなくて、生きている者の心のうちさ」

 そう言う父も俺の方も半分はあの世に足を踏み入れているわけだが、でも後段には同意する。

 「幽霊は正直で、悪いヤツは悪そうな顔をしている。だから分かりやすい。だが、生きているものはどれもこれもすました顔をしているが、心の内は一様に醜い」

 俺の言葉に今度は父が頷く。

 「違いない」

 父は散々、騙されたり盗まれたりしたから、ひとの醜さを味合わされている。

 

 ここで母が口を開く。

 「さあ、今日はせっかく帰って来たから、皆で墓参りに行くべ」

 コロナの影響で、墓参りにも行けていないから、丁度よかった。

 皆で部屋の入口の方に歩き始める。

 ここで覚醒。

 

 眼が覚めると、「自分がまた少しあの世に近づいている」ことを実感した。

◎怒りの神

◎怒りの神

 先日、怒りを覚えたまま通り道に入ったので、あれこれと悪縁を拾った話を書いた。

 その後、お祓いをして、怒りの神が去ったかと思ったら、まだ傍にいたようだ。

 なお、この場合の「神」は「この世ならぬ者」という意味で、悪縁のことだ。

 突然、腹が立ち始め、ある人のことを「殴る蹴るで〆てやろう」と思うようになった。

 その状態で本人に会ったら、本当に暴れたかもしれん。

 

 怒りを抱え、座っていたが、ある一瞬に我に返った。

 居間の隣には息子の部屋があり、その時、息子は眠っていたのだが、「ううん」「ううん」と魘されていた。

 その声が耳に入ったのだ。

 「コイツも敏感なヤツだから、そろそろ処理の仕方を教える必要がありそうだ」

 それで、その時の自分の状態を悟った。

 「俺もあれこれ怒りを吹き込まれているじゃないか」

 もしかすると、今、息子が魘されているのは、父親のせいかもしれん。

 

 そこで自室に戻り、またお祓いをした。

 それで次第に冷静になり、怒りが鎮まって来る。

 環境とのタイミングが合えば、その怒りに支配されて、面倒なことになったかもしれん。

 これはなるべく人と関わらぬようにして暮らす必要がありそうだ。

 

 ちなみに、悪夢に魘されている者を、起こして目覚めさせるかどうかは、その時の状況による。

 ただ魘されている場合は、単なる悪夢のこともあるから、その夢が一段落するまで様子を見た方がよい。

 手足を動かして暴れる場合は、優しくゆすって目覚めさせた方がよい。悪夢の正体と引きはがすためだ。

 ま、基本は「自分で解決する」ことを覚えさせる必要がある。

 

 「怒りの神」と同じように「絶望の神」もいる。

 「ああ、俺はダメだ」

 「生きていても仕方が無い」

 みたいな考えを吹き込む。

 普通の者は、すぐに我に返るわけだが、悪条件が三つ揃うと、その考えから抜けられなくなってしまう。

 影響されやすい(と自覚する)者なら、よほど気を付ける必要がある。

 ニュースを観ていると、ささいなことで暴力事件に発展するケースがあるが、あれはこういうことだ。

 本人はいざ冷静に戻ったら、自分でも「何故自分がこんなことをしたのか」を理解できないことだろう。

 

 追記)やはり心身ともに不調になって来た。夢(潜在意識)が示唆する通りのことが起きる。ま、これが「普通の状態」だと思えば、どうということもない。
実際、起き上がれぬ日も多いのだから、嘆く必要も無し。