日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎お友達の帰還(628)

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令和四年一月十七日撮影。

◎お友達の帰還(628

 昨夜、台所に立っていると、すぐ左に人の気配がした。

 こういうのは久しぶりで、ひと月くらいの間、まったく何もなかった。

 体調がイマイチでもあり、ほとんど家から出ず、横になっていたが、まったく不審事が起きない。

 あれだけ起きていたのが、「何もない」となると、変な気持ちになる。落ち着かない。

 朝になると、いつも鳩尾に感じる何とも言えぬ「重さ」が少し和らいでいる。

 鳩尾の重さは心臓の悲鳴だが、今更もう手立てはないのでこれまで安静にしていたというわけだ。

 「では、ようやく初詣に行ける」

 出掛けようとすると、この日休みの家人が「一緒に行く」と言う。

 ま、一人だけで出かけると、いざという時に対処出来ぬから、行動を共にすることにした。

 

 まず当家の守り神であるお不動さまにお参りすべく、飯能の能仁寺に向かった。

 本堂でお焼香をした後、お不動さまに感謝の意を伝えた。

 子どもの頃から「数十万の亡者に追い駆けられる」夢を五百回は観たと思うが、何年か前に夢の中にお不動さまが現れ、保護してくれた。

 私は家人と一緒にいたが、異様な姿をした亡者が葬式の幟を立てて追い掛けて来た。追い付かれそうになったところで、巨大なお不動さまが現れると、火炎が周囲に満ちたのだった。以後、亡者の夢を観なくなった。

 

 次はいつもの神社にも参拝した。

 この神社とトラがなかったら、神経が持たなかったと思う。

 今もしんどいが、数十㍍を歩けぬ時期が長かった。

 ここでも感謝の意を伝えた。神仏に序列は無く、いずれにも等しく敬意を表する。

 

 神殿のガラスに映る景色に目を遣ると、久々に目視で人影を見た。

 影は複数で、白い着物を着た者や、神殿に向かって手を合わせる者などが立っていた。

 「おお。俺のお友達が戻って来たか」

 私にとっては、こっちの方が慣れている。

 「それなら、俺もすぐには死なんだろうな」

 画像を開いてみたが、目視で見える時には画像にはほとんど写らない。これも従前どおりだ。

 だが、人影のひとつは見える人がいるかもしれん。

 ま、画像では存在感が薄くなり、「たまたま」に見えてしまいそうではある。

 

 私は可視域が少し広いようで、いつも体の近くにぼんやりとした煙玉が見えている。

 この日は左肩だ。

 これがすっかり目視可能なほど鮮明になると「何らかのサイン」だから注意が必要だが、ぼんやりしている分には何も問題はない。(子どもなら、かなり鮮明でも問題はない。子どもに出るのは当たり前だ。)

 たまに十個くらい出る時があるわけだが、これが見える人は少ないようだ。

 ま、こういうのは、自分だけが分かればそれでよい。

 自身に変化が起きているか否かの物差になればそれで良く、他の者に認識されるかどうかなどどうでもよい話になる。

 ファインダを覗いている時には、複数の人影(顔)が左肩の後ろに見えていたが、画像ではそれほどでもないようだ。

 

 あの世の方々が戻って来たのなら、早めに自身の状況を察知することが出来る。

 「幽霊を感じていないと不安になる」というのは、たぶん、普通の人の感覚とはかなりズレていると思うが、私はもとより偏屈で一言居士だ(快笑)。

 

 最近の体調不良が、昨年、腹部の煙玉が出た時を起点としており、その時には同時に左脇の下くらいに「長方形の透過箇所」が出来ていた。まるで周囲の景色を切り取って貼ったような長方形だったが、意図的にそれをする理由は私にはない。私と同じものが見え、感じ取れる人は五人くらいしかいないので、世間的に「ウケよう」などという気持ちはさらさらない。昔も今も「生き残るために」やっていることだ。 

 あの時の「透過」は、あの世の者に「ぐさっと刺された」状況で、その遠因がそれより一週前に「近寄ってはならぬ祠の前に立った」ことにあると思う。

 この世と同じに、あの世にも「相容れぬ相手」がいるらしい。

 この数か月より前の状態に戻れば、まだこの先の展望が開けるかもしれぬ。

 だが、人事の処理が全面的に停止していたので、この先は別の意味で骨を折ると思う。

 ま、それも生きていてこそで、この先があるならどうにかなる。

◎古貨幣迷宮事件簿 「布袋入りの雑銭」続き

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袋入りの雑銭

◎古貨幣迷宮事件簿 「布袋入りの雑銭」続き

 画像の品はこれまでも幾度か掲示して来た。

 何かしら反応があり、情報が入って来ることを期待したためだが、結局、何も得られず、事態は15年以上、1ミリも動いていない。

 これは秋田県の盛岡と秋田の藩境付近で出た袋入りに雑銭になる。

 画像ではよく分からぬかもしれぬが、大半がペラペラの薄い銭で、触った瞬間はかつての日原銭を思い出す。

 金色が未使用の十円玉(青銅)色のものが大半で、幾らか黄色いものも混じっている。当初は真っ赤だったが、15年以上放置していたら、半分は落ち着いて来た。

 デジカメ画像よりも、スキャナで撮影した画像の方が目視に近い。

 特に配慮しなかったので、中には青錆が出た品もある。

 

 銭種はごく普通の雑銭で、1枚だけ中国銭が混じっている。これもペラペラ。

 三枚だけ銭種の分からぬ寛永銭があり、これを別に取り置いたのだが、これが祟り、紛失してしまった。見たことの無い書体だから、手を加えた品かも知れぬが、今ではどうすることも出来なくなった。

 状況が分かりやすいのは、後半の画像だ。

 同系統の書体(不旧手)のみを抽出すると、こんな風な品が出た。

 01は本銭を少し削ったものかもしれぬが、02からは厚さが半減するので尋常ならぬ違和感がある。

 右に向かって銭径が幾らかずつ小さくなるが、本銭にも大小のバラエティがある。

 ただ06の薄さは本銭にはなく、また内郭も抜けている。

 目的は分からぬが、何かしら「調整した」「操作した」ことには疑いあるまい。

 銅材を少しずつ掠め取るために銅銭を削るケースがあるのだが、その場合は多く縁の部分のみを削る。

 先輩方数人に見て貰ったが、いずれも首を捻るばかりだった。

 

 このまま古色が着けば、ごく普通の小様銭に変じるのかどうか。

 地方の変種の一手になるかもしれんので、既に研究している人があれば贈呈しようと思っているが、その気配がない。

 興味のない人に差し上げても、ただ屑銭の中に放り込まれるだけだと思う。

 こういうのは1枚ずつ見ても分らない。

 袋に入った状態で物置から出て来たから、初めて違いを認識出来る。

 当初は大半が「未使用の十円玉」に近い状態だった。

 

 返す返すも、「変な書体」の数枚を紛失したことが悔やまれる。

 その頃は「雑に手を加えた参考品」として軽視していた。

◎古貨幣迷宮事件簿 「八戸 広穿マ頭通への系譜」

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八戸領における背千の展開のひとつ 「広穿マ頭通」

◎古貨幣迷宮事件簿 「八戸 広穿マ頭通への系譜」

 八戸銭の面白いところは、変化が多様なところだ。

 あまりにも多くの変化があるから、「型」に囚われると数限りなく出て来る。

 頭を切り替え、系統的に認識するようにしないと、それこそ五百種、八百種と分類が増えていく。幾つかの分岐になるもの以外は、あまりこだわらぬ方が無難だ。

 そもそも、文字を読むのにもひと苦労するような出来の品ばかりだ。

 

 画像は、鉄銭の金質をもとに簡単に鋳地をより分けたものだ。

 もちろん、厳密な区分ではない。銭座への出稼ぎ職人が既存し、石巻から持ち帰った母銭をそのまま利用して鋳たものもあれば、母銭を鋳写して新たに展開した例もある。

 たたら鉄には、十五種類以上もの呼び名があったことは前にも記した通りで、これは今では分からない。あくまで印象と型の変化を頼りとするしか手立てがない。

 

 石巻から葛巻正様への伝鋳については、ここでは省略する。

 大鋳銭座の使用に耐えうる存在数があることと、型が揃っていること、この地域で最もよく見られる型が石巻銭直系の「やや小型」の背千であることから、正様を鷹ノ巣鷹巣)座の産と見なす。あくまで当地鉄銭の撰銭より得た見解であるから、確たる証拠が出るまでは、他に方法は無い。

 そもそも、現地を訪ね、資料館に残る銭の検分をしている者はほとんどいないので、残る手立ては発掘しかない。

 

 葛巻の職人が他の地で同時に鋳銭を展開するケースは、二戸目寛見寛座だけでなく、多方に渡っている。いわゆる「密鋳背千」の変化を観れば一目瞭然だ。

 (05はひとまず「その他密鋳銭」に位置付けたが、字の大きさは本銭に近い。)

 ただ、06以降は葛巻以外の八戸領もしくは盛岡領北部の産になる。

 バリエーションは多々あり、パターンを上げればきりなく出て来る。

 

 広穿マ頭通が目寛見寛座に近いことは、私の発見によるものだ。

 葛巻銭に「マ頭様」が散見されることは、地元では周知されていたようで、時折、それと分類している収集家がいた。

 ただ、「広穿」の場合、葛巻銭の母銭より厚く仕立てられている。

 「マ頭通」は通頭へのアタリから始まったようだが、おそらく葛巻の「マ頭様」の穿に刀を入れ、拡げたものなのだろう。

 穿を広くする加工は、目寛見寛座の背千類で散見されるので、「マ頭通」と「広穿」は湧けて考える必要があるかもしれぬ。

 広穿類自体にも変わりが見られるので、「広穿マ頭通」の周辺だけで、ひとつの研究テーマになり得ると思う。

 ちなみに、銭径に対し、穿のサイズが大きいし、通字の「マ」も割と鮮明なので、選り出しは容易だ。ただ存在数が少ないだけ。 

 

 目寛見寛座の代表銭種は、文字通り「目寛」「見寛」であるが、同じ仕様の「背千類」とその変化形態も多い。

 サイズと「寛」字の印象で、「目寛」「見寛」と見なすことなく、良く確かめる必要がある。「目寛」は四つ宝銭の近縁種と間違えやすいし、「見寛」には書体変化があるようだ。

 母銭を特定するのは容易だが、鉄銭については、同一の座銭であることは厚さなどにより分かるものの、「面文がよく鋳出されていない」という理由で判別には困難が伴う。

 

 さて、地元の先輩である故K村さんなら、「広穿マ頭通」の分類名の横に「※※氏発掘」と記してくれたと思う。

 先輩方の多くがこの世を去り、郷土史の議論をすることも殆ど無くなったのは、少し残念に思う。

 注記)いつも通り一発書き殴り。あまり調子が良くない。

 

 追記)葛巻鷹ノ巣鷹巣とも書く)を幾度か訪れたが、集落の奥は立ち入り禁止の山道になっている。四駆でも百㍍と上って行けない。

 車を置いて徒歩で立ち入ったことがあるが、草叢の中から不意にカモシカが顔を出し、驚かされた。カモシカは「青獅子」とも呼ばれ、間近で見ると顔がでかく迫力がある。

 鷹ノ巣からたたら山に向かう一帯には、たたら炉の跡が数多くあるようで、地元の人に聞いたところでは、所々に「ノロが落ちている」とのこと。「ノロ」は鋳鉄の際に生じる残滓のことだ。

 たたら炉は一度の鋳鉄で壊し、別の場所に移動して、再び炉を作る。これは専ら木材の調達という必要性からだという。「炉ひとつで山ひとつ分の木が無くなる」らしい。

 ただ、木材を薪にするのにも半年一年乾燥させる手続きが必要だが、木を伐採し木炭にする段取りはどうなっていたのだろう。

 この地域には熊が出るし、今の熊は人を襲うので、仮に健康でも、もはやこの地に立ち入ることは出来なくなった。

◎古貨幣迷宮事件簿 「銭箱の雑銭より」

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銭箱の雑銭

◎古貨幣迷宮事件簿 「銭箱の雑銭より」

 家屋の解体で不要な古物が出ることがあるのだが、従前はこれを扱うのが「買い出し」と呼ばれる人たちだった。解体業者の知り合いで、現場に行き、めぼしい品を引き取って来る。

 これを自分で売ったり、その地の骨董会に出したりする。これが「買い出し」の生業だ。

 よって、旧家から出たばかりの骨董・古美術品等は、解体業者や「買い出し」を通じて手に入れると、「ウブい」品を入手出来る。

 だが、もちろん、日頃より良好な関係を保っていないと、複数いる買い手の中から自分を選んではくれないので、とにかく仲良くすることが基本だ。

 顔を見れば何かしらを買い、相手の商売を支えることが大切だ。

 ここを疎かにすると、いざという時に自分の電話番号を思い出しては貰えない。

 自分にとって損か得か、必要か不要かだけではなく、あるいはそれとは別に、相手にとって損が出ぬように配慮する姿勢があると、先方もそれを理解するようになるから、融通して貰えるようになる。

 骨董店では「一見の客」がどんなに偉そうなことを語っても良い品物を見せては貰えない。何年も付き合って、初めて奥の金庫から「こういうものがあるのだが」と出してくれるようになる。ま、入札やネットでばかり品物を得ていると、その品が出た状況に関する情報が得られない。結局は「手の上の銭」の話だけで、奥行きが広がらない。

 時々、「どこからどうやって出たかが重要」と書くが、「誰から入手したか」という意味ではない。「どういう状況だったか」という意味で、どういう家のどの場所に、何と一緒に仕舞われていたか、どういう使われ方をしていたか、等の話だ。

 

 やや脱線したが、「買い出し」や「骨董会」ルートで、時々、「銭箱入りの雑銭」が出ることがある。何時入れられたかは様々で、昭和三十年くらいより以前なら、どの時期に入れられてもおかしくはない。寛永銭が現行貨だったのは戦後の一時期までで、貨幣単位として小さかったから、藁・縄通しで括られた。これを仕舞っておくのに、木箱や銭箱が便利だから、それに入れられた。

 もしこういう銭箱を見る機会があったら、最初に点検するのは箱の横や裏側だ。

 そこに持ち主の名前が書いてあれば、概ね商人のもので、書いてなければ百姓家のものになる。ま、「※※屋」などの屋号が書いてあれば商家のものだ。

 もし商家にあった銭箱なら、迷うことなく「買い」だ。値段の高い安いは関係なく、落とすまで競るのが基本になる。

 前にも記したと思うが、商家は銭の出入りが多い。日常的にお金を扱っている。

 私も商家育ちなのでよく分かるが、商人は手触りのおかしなお金を得ると、それを必ず避けて置く。私の家にも小さい木箱がレジ下に置いてあり、古銭や外国貨が紛れ込むと、そっちにハネて置いた。使用可能な旧札も同様だ。

 こういうのは、そのままずっと残っていることが大半で、銭箱にもそれが反映されている場合がある。

 

 所沢に珍品堂という古道具兼買い出し業者がいたことがあるが、毎週顔を出し、必ず何かを買い、その都度、「古銭が出たらよろしくね」と伝えていた。奥さんが店番をしていることが多かったので、お菓子を土産にしたりする常連になった。

 何年かが経つと、これという品を取り置いてくれるようになったのだが、その中で「商家の銭函」が出た。この話は前に書いたので省略するが、蔵出しで出たばかりの品だ。何せ値段が高い。銅銭が枚単価で五十円前後、鉄銭でも二十円超だ。

 これも幾度も書いたが、雑銭は「出たて」の品の方が値が高い。解体屋から出てすぐには三十五円なら安い方で五十円勘定でも当たり前。これが地方都市に出て、東京大阪に達すると、最も値が安くなる。これは途中で母銭等、めぼしい品が消えるためだ。ネットも同様。手に入りやすいのは、所謂「見たカス」になる。

 わざわざ取り置いて貰った品だが「ちょっと値が強い」と思いつつ手に取って見ると、最初に見えたのが永楽銀銭だった。ちなみに、当たり前だが、裏にきちんとブツブツの砂目が入っている本物だ。(他に慶長やら寛永銭の母銭やらがやたら出た。)

 天保銭が千円くらいだったが、こちらも本座が見当たらない。水戸が多かったが離郭も数枚あった。

 チラ見の後、即座に引き取ったが、その後、半年くらいは古銭会に出す品物に困らなかった。

 ちなみに、鉄銭は不要だったのだが、残したら先方の滞貨になるし「気が悪い」ので全部引き取った。「気が悪い」とは、店主は一括で買って来ているのに、こっちは良さげなものだけを拾うという意味だ。一括で仕入れた品は一括で買い取るのが礼儀だ。

 こういう配慮を怠らぬと、必ず「次」も来る。

 ただ、先に銅銭を数千枚買っているので、こちらは@十円に負けて貰えた。

 こっちはさすがに「千」ばかりだった。この辺は古銭について通じていない業者さんでもよく知っている。一文鉄銭は二千枚も無かったから助かった。

 当四鉄銭なら喜んで買うのだが、一文鉄銭はほぼ背千になる。

 ま、差し引きは「最高の面白さが得られた」ということ。何せ銭箱に玉塚天保銭が入っていた。要は大正から昭和戦前までの期間で「放り込まれていた」ということだ。

 

 この経験があったので、以来、銭箱をいつも注意して見ていた。

 すぐに時代が変わり、古道具屋や骨董店が姿を消し始める。

 ネットオークションの出始めの頃に、鹿角の業者が銭箱入りの雑銭を出品していたのだが、内容物がよく見えない。ここはまだ誰もが不慣れだった。

 だが、経験と直感で「商家」の「蔵出し」だと悟ったので、落札まで追うことにした。値段は関係ない。損得で動いているわけではなく、「きっと面白い」だろうからそうするということ。

 ここは勝負事と同じで「行く」と決めたらとことん「行く」ということだ。

 繰り返しになるが、こういう時には値段は関係ない。

 

 小汚い雑銭に見えたせいか、銭箱は割とすんなり落ちてくれた。

 枚単価で35円超に達していたから、皆が損得で考えて遠慮したということだ。

 こちらの目当ては密鋳銭だが、これは画像では分からない。

 もちろん、この時の雑銭も「商家の銭箱」で、記事を書くネタには困らぬほどの材料が出来た。

 と、以上は総て前置きだ。

 

 冒頭に掲示した画像の中核はこの銭箱から出た品になる。

01 マ頭背盛 と 02 山内濶縁(偶然マ頭)

 「背盛」はコ頭通だが、たまたま欠損が生じ、マ頭に見えるものが時々ある。 

 02の方はそれで、通用銭の鋳造の際にたまたま生じたものだ。(ちなみに、濶縁の手で、これ自体は見栄えのする良い品だ。)

 だが、01のタイプは同じ型の母銭が存在している。薄く、白銅質の金質なので、閉伊三山、たぶん大橋のものだと思うが、銭径の縮小度がさほどないので、少し驚かされる。閉伊三山の型は「小さく・薄い」が基本だ。

 この母子を揃えたかったが、蔵主が一人で存在も一品のみ。さすがにこの母銭を譲っては貰えない。母銭の選り出しは、まずもって無理な話だろう。鉄銭の方は数万枚も見れば拾えるかもしれぬ。

 

03 山内異足宝 と 04 湯口の大きな異足宝

 いずれもこの銭箱より出たもの。鹿角なので複数あってもおかしくないが、四五枚は出たと思う。異足寶は銭径の配分比が決まっているので、選り出しは簡単だ。かつ足が見えずとも「同じ手」だというのもひと目で分かる。

 山内座は大鋳銭座で、母銭を大量に作ったから様々な変化が生じる。その中のパターンを覚えれば、面文が見えなくとも輪幅だけで判断できる場合もある。

 さて、この時の検分で、最も衝撃的だったのは、04の「湯口が大きく見える異足宝」だ。

 銭種が「背盛異足宝」なので、山内座のものであることを確定できる。しかし、この品は異様に湯口が大きく見える。

 湯口がバカでかいのは「称浄法寺銭」だけで、これは少なくとも明治初中期になる(仕立て銭)。

 「称浄法寺銭」に鉄銭が無いのは「鉄銭を作る時代を過ぎていたから」ということ。 

 「湯口を大きくしたのは、そもそも切り離す意図が無かったから」ということ。

 鉄銭をお金として鋳造したのは明治四五年までで、それ以降は作る意味が無くなった。だから「称浄法寺銭に鉄銭は無い」。

 それらすべての見解を、この鉄銭一枚が総て粉砕する。湯口の大きな枝銭を「明治初年頃に作っていた」ということになると、諸説が悉く崩れてしまう。

 称浄法寺銭としては「湯口の大きな仰寶鉄銭」が一枚か二枚見つかっていると思うが、これは後になって出て来たつくりだ(平成浄法寺)。砂目がイマイチだし、信頼は置けない。

 ただし、鹿角の完全ウブ銭の中から出現したとなると話が別だ。

 これが称浄法寺系の鉄銭なら、あなたも私も、そして地元の人も含め、古銭界全般が「眼の利かぬ者の集まり」ということになってしまう。

 だが、これはまだ結論は出ていない。湯口が大きく見えるが、「たまたま大きく割れた」という線が残っているからだ。バリが広く出て、それが割れるとこんな風にも見える。二枚目が出るのを十五年以上待っているが、結局は出て来ない。

 もし湯口を大きく広げた鉄銭があれば、この製造者はかなりの愚か者で(銭の役に立たない)、銅銭なら鏨で落とせても、鉄銭に同じことをすれば割れてしまう。

 ちなみに、鉄銭は「思い付き」では作れない。それっぽく作るには砂鉄を溶かす必要があるが、湯温を調節するのが難しいし、当時の出来に製作を引き寄せるのは、一層難しい。

 怖ろしいのは、その「理にかなわぬ鉄銭」が存在する可能性が幾らかあることだ。

 繰り返しになるが、もし鉄銭群が出てくれば、過去の認識を総て捨てる必要が生じる。(これを記すと、必ず「作ってみる」者が出て来るので、こういうのは言わぬ方が良いのだが、既に卒業する身なのでどうでも良くなった。)   

 

 05から07は品物としてはがらくただ。05はゴザスレ風に輪を削り、裏面を削ぎ落してある。密鋳鉄銭用の改造母ということ。

 06は面背を研ぎ、とりわけ裏面は総て削ぎ落してある。銭を削る目的としては、職人が「銅材を得る」というものがあるのだが、半分をすっかり削るのは、厚さ調整のための「貼り合わせ」を狙う意図がある。

 貼り合わせて厚さ(=重量)を調整し、面背文を整えるという工程に進むわけだが、これは不出来だったので、ここで止めた可能性がある。

 07は白銅質。銭箱から出した時には純白色だったが、時間の経過と共に少しずつ変色して来た。

 

 08から10は小型化されるケースだ。

 08の猿駒引きは、輪だけを削った銭をよく見かけるが、これは削った後で鋳写したケースになる。背面の「寶」の字が痕跡だけ残っていることで分かる。

 09はおそらく題目と思われるが字面が判然としない。地金が違うので何とも言えぬが、目寛見寛座の形態に近くなっている。

 10は印判銭。銭径が小さく、配分比が変わっているので、新たに木型の印判を起こし、これを砂型に押して作ったようだ。

 11の鉄の念仏銭は10との比較用に掲示したもので、普通サイズの念仏銭を小さく鋳写したもの。

 縮小度が著しいわけだが、軽米から目寛見寛座の範囲までの可能性がある。

 

 12は仰寶銅鋳の中で最も存在数が多いものだ(母銭よりは少ない)。製作が整っているところを見ると、恐らくは数万枚もしくは数十万枚規模で鋳造している筈だ。一銭種で数十万枚となると、全体では何トンかの銅素材を調達したことになる。この時期に盛岡藩で稼働していたのは、事実上、尾去沢しかなく、かつ、銅山手天保銭と製作が酷似していることから、私は山内座の初期のものではないかと見ている。

 一番大きな要因は「銅材の調達」で、小吹の銅密鋳銭はここまで製作が揃ってはいない。生産体制が整っていないと、製品の質を揃えることが出来ないのだ。銭の密鋳で重要なのは、専ら資材の調達で、人手はその次の要件になる。うち金属素材と木炭が最初の壁になる。

 13は12の比較用に掲示するものだが、明らかに製作が違う。

 面背の研ぎが強く、銅質の配合も若干異なる。

 研ぎが強いので、背径の配分比が変わり、内輪が詰まっている。

 鋳銭技術の上では、踏潰の手法に近くなる。

 風貌も少し似て来るわけだが、これはいわゆる延展手法で、銭の規格を揃えるために厚さを調整したものだ。面背を研いで薄くし、次に面背文を削って整える。

 こう記すと、すわ「踏潰の仰寶では」と考えるのは、分類志向に陥っている性癖(病気)によるものだ。「銭を銭として整える時に考えることは同じ」で、場合によっては「踏潰の職人が参加したかもしれぬ」と想像する方が無難だ。

 密鋳銭では型分類などどうでもよく、「何を目的に、どういう手立てを選択したか」の方が重要だ。密銭の目的のひとつは、「誰もが普通にお金として使えるものを作る」ということだ。きれいな品や変わっている品を有難がるのは、後の世の好事家だけ。

 

 さて、「今日のこの一枚」となると、やはり「湯口の大きく見える背盛異足宝」ということになる。ただの見すぼらしい鉄銭だが、資料的に爆弾ほどの意味を持つ。

 

 注記)いつも通り、推敲や校正をしない一発殴り書きになる。不首尾は多々あると思うが、体力的に致し方ない。ただの雑感というように受け止めて貰いたい。

 

 追記)珍品堂では、数度、和同が店頭に出ていた。いずれも複数枚だったが、「どうせ本物ではない」と見て、手にとっては見なかった。

 外見も出土銭だったが、「今時何で和同の出土銭が出るのか」と思ったのだ。

 ところが、後で収集の先輩に聞くと、埼玉で数十万枚の和同が発掘された時に、新聞を見た人の中には、夜中に発掘現場に行き、幾枚かを掘って来た人がいたらしい。

 「掘って来た」は要するにドロボーをした、ということ。

 さすが、殺人・強盗・詐欺・骨董(古銭)と、悪人の序列に居並ぶ人種だ。

 それなら話がだいぶ変わって来るが、しかし、その頃は、コイン店で後出来の和同ばかり見ていたので、私は和同自体を信用しなくなっていた。

 ここは本物だけを見ていれば「それと同じかどうか」で、それなりに判断出来る。

 偽物にはそれらしく作った品があるから、迷いが生じ、結果的に本物を逃すことにもなる。この時はせめて手に取って見ればよかったと思う。

 逃した魚は大きく感じるが、「文字が大きかった」ような印象だった。ま、それも「見なかった理由」の一つではある。

 だが、当たれば大字だ。これぞ勝負すべき時で、何を迷うことがある?

 高い安いは後から考えればよいことで、行くべき時には「行く」のが鉄則だ。

 もちろん、偽物も多いから、しくじることもあるわけなので、経験で状況を見極める目を育てる必要がある。

◎また紙一重

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令和四年一月十一日撮影。画像にはごくうっすらとした影だけ。 

また紙一重

 今は幽霊たちの影を見ることもなければ、気配に驚かされることもない。写真を撮ってもさしたるものは残らぬので、ごく普通の病人生活だ。

 もちろん、見えぬ時は、先方が「魂胆を隠している」場合が多いので気は抜けない。

 カーナビで山の中の行き止まりに連れていかれる時も、途中まではまったく気配がない。ぎりぎりのところまで着くと、悪意がむき出しになる。どこをどう立ち回っても道の先が細くなる。

 

 火曜は雨だったが、病院から帰る途中、ビニール傘越しに左後ろを見ると、女が後をついて来ていた。

 「あれ」と思い、傘を外して見ると、誰もいない。

 手の届きそうな距離だったのに。赤いショールみたいなのがはっきり見えたのに。
 傘を上げて先を見ても、そこには誰もいない。

 結局は、やはり「いなくなった」のではなく、「隠れている」ということだと考え、一層、気を付けることにした。

 

 夕方になり、家人が歯医者に行くというので車で送ることになり、ひと足先に車に入り待っていた。

 すると、道の向かい側に複数の黒い影が立っている。

 気温の下がる夜の方が、赤外線を検知しやすいが、周囲との落差が生じるためだと思う。

 「幽霊が夜に出やすい」のはこのためだ。

 いずれにせよ、一般的に赤外線は可視域の外だから、よほど条件が合わねば視覚的に捉えるのは困難だ。

 

 ともあれ、すぐにスマホで撮影した。

 デジカメでフラッシュを焚けば、あらゆる意味で好都合なのだが、無いものは仕方がない。

 加えて「ちゃんと見えてるからな」と声に出した。

 画像を開けてみると、ほとんど区別がつかなくなっている。

 この辺も、「目視する時には画像には残らない」というルールに沿っている。

 

 さっき見た感じでは、左側に「黒い女」、右側にアモン系の悪縁とその手下みたいなヤツが立っていた。

 「まるでお迎えの本番が来たみたいだな」と口に出すと、すかさず、ドンと不整脈が来た。

 重い方の発症で、仮に心電図を採っていたなら、ブザーが鳴り、看護師が走って来るレベルだ。

 嫌な感触で、胸をぎゅっと握りしめられる感触がする。

 財布にニトロ錠剤を入れているので、それを取り出そうとするが、上手く出せない。

 最近は金属アレルギーのこともあり、横着をしてペンダントではなく財布に入れていた。

 「死ぬ時はこんなもんだ」とも頭に浮かんだが、やっぱりそうそう死にたくないので、「俺はちゃんとお前らを見てたからな」と伝えた。

 

 発作は案外早く終わり、二分も無かったのではないか。

 ま、本番なら、家人が来る前に昏倒しているし、そこから救急車を呼んでも間に合わない。

 心不全ならドカドカが始まってから四十分以内に治療を開始しないともはやアウト。脳梗塞も部位によるが同じくらいだ。

 面白いことに、「だるまさんが転んだ」ではないが、視線を向け、「見てるぞ」と告げると、相手の動きが止まる。

 本能というか習性というか、死んでる者も生きている者も大して変わりない。

 ピッチャーが振り返って自分を見ると、ランナーは「アウトにされるかも」と思い、元のベースに戻る。

 

 以前、「お迎え」が来た時には、相手と私の間に「目に見えぬ壁」があり、お迎えの二人は一㍍手前から入って来られなかった。

 たぶん、まだその時期ではなかった、ということだろうが、今はそのアクリル板のような壁は無くなっていると思う。

 

 ちなみに、画像だけ見ても何も見えない。

 これは私個人に関わる者で他人には縁を持たぬからだ。

 私だって、この画像ではほとんど何も見えない。

 だが、「そこにいた」と確信を持って言えるのは、「直接見た」からで、かつ、何年も前から繰り返し私の前に現れた者たちだった、ということによる。

 

 アモンの仲間は、どうやら召喚を伝えに来ているらしい。

 母子の母親役の方は、この三年くらいですっかり悪縁(霊)化して、姿かたちが崩れてしまった。

 (「母親役」というのは、本当の親子ではないから。)

 助けてやろうと思い、折にふれてお焼香をして来たが、上手くやれなかった模様だ。

 いずれにせよ、ただ見ているだけだったのに、今は接近をしようとしている。事実上、再び「お迎え」に近い立場の者に転じているということだ。

 視覚や聴覚に頼らずとも気配が分かるようになって来たことだけが頼りだ。 

 

 桜の咲く頃までに、私が病死したり、不慮の事故に遭ったり、自死していれば、それは要するに「捕まった」ということだ。

 その頃を越えられれば、たぶん、夏から秋口までは生きていられる。

◎古貨幣迷宮事件簿 「ビニールのブックでも劣化が進行する」

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劣化の進行

◎古貨幣迷宮事件簿 「ビニールのブックでも劣化が進行する」

 ホルダーに入れ、ビニールのコインブックに入れたままにして置くと、銀貨も銅貨も劣化が早く進行する。

 まず塩化ビニールは湿気を吸いやすいという前提条件があり、さらにビニール自体、塩素化合物(塩化ビニール)であるということが関係している。

 銅なら青錆、銀なら塩化による黒ずみが割合早く出てしまう。

 銀貨銅貨の保存には、塩素を含まぬプラスチックケースを利用するか、いっそのこと、和紙の袋に入れた方が良さそうだ。

 

 画像は古銭会での買い入れの際に入手したものだ。近代貨、現行貨は率直に言って「迷惑な話」だったのだが、他に穴銭のコレクションがあり一括処分の希望があったので引き受けた次第だ。

 五輪の年の百円は主力が記念銀貨であり、稲穂の百円の方は、それまでの年よりも発行枚数が少ない。蔵主は銀行よりロールで貰ったのをそのまま保存していた、とのこと。ほとんど未使用に近い極美品ということだ。

 以来、ブックに入ったものをそのままにして置いたが、二十年以上が経過したところで、改めて開けてみると、何枚かには青錆が出ていた。

 これを除いたが、残りの品についても色むらが出ている品がある。 

 そこで状態変化の認められる品を取り出して照合してみた。

 

 ①左はごく薄いトーンだけ。

 ②中央は全体がくすんでいるのと、ごく一部に塩化の痕が見える。これはおそらく硫化(トーン)ではない。

 ③右には、塩化の染みが左側に拡大している。

 この原因は恐らく、ビニールの質によるものではないかと思う。

 素材に塩素を使用していることが影響している可能性が高い。

 (ここは深く掘り下げるつもりはない。既にコイン全般への関心がない。)

 ③を拡大して確認すると、使用した痕が幾らかあるようだ。要は、そもそもが金融機関の袋に入っていた品で、翌年くらいに改めて巻かれた「銀行ロール」だったのだろう。完未に近い状態のものもあるところを見ると、たぶん、翌年の昭和四十年くらいだと思う。

 

 ちなみに、銀貨はロールの状態でも、一定期間後には輪側に必ず黒変が生じる。

 これを避けるには、一枚ずつ和紙で包み、極力、空気に充てぬようにして、乾燥した場所に仕舞っておく必要がある。

 最初に、空気と接することの多い箇所に薄いトーンが入り、年月の内には、窪んだところが塩化し、深く黒くなる。

 保存方法に配慮せずに仕舞って置くと、百年も経てば、銀錆で白くなるか、谷に塩化が入る。この場合の「谷」は、極印が打たれた底ということだ。

 

 二千年を過ぎた頃に、ある銀貨が市中に割と出たが、昭和にまとまって出た時と状態が違っていた。表面に薄いトーンが入っているが、極印の谷が白々と新しい。

 「こりゃ三四年も経っていない代物だ」と思ったので、その銀貨の地元の先輩収集家H氏に、ぶしつけに訊いたことがある。

 「こいつは銀の特性から行っておかしな代物ですね。極印が残っていたのですか」

 銀と極印があれば何でもできる。

 すると、H氏は「なあに、これは※※というところの▽◆という工場で作ったものですよ」とあっさり答えた。

 別の銭種だが、ルーツ(出所)をたどると、たった一人の医師に行き着く品もあり、銀銭はあまり有難がらぬ方がよいと思った次第だ。もちろん、銀には時代が乏しいから明確な根拠を挙げて、否定するのは困難だ。

 鏡のように光る円銀だって、当初は米国製だと推測されていたわけだが、数十年経ったら区別なく本物で通っている。 

 

 ちなみに、それから五六年して、ある古銭会に出たら、Hさんが「工場で作った銀貨」を本物で出品していた。しかし、本物なら堂々と正価で出せばよいのに、六掛けくらいの値段だ。

 素性を知っており、かつ「こいつらにはどうせ分かるまい」と思っていたのだろう。

 古銭・コインは、絵画など美術品と性格が同じで、買い手の方が値段を決める。

 自身がよしと思って買った品をかなり後になり、不首尾があったと気付いても後の祭りだ。自身が調査不足で、要は鑑定眼を持たなかった、ということだ。

 後で文句を言う者もいるが、そういう人は「他人任せ」で、前例がありそれに似ていないと判断できない。よって、元の銭が変化したもの、あるいは新銭種が出ると、手が止まってしまう。ありきたりの品を安く手に入れることだけに執心していると、結局は見すぼらしい品ばかり並ぶことになる。

 また、損得で思考する人のコレクションには、往々にして贋作が入っている。

 H氏が六掛けで出品したのは、そうする理由があるからで、損得だけ考える者は「周囲が良いと言っているし、格安だ」と手を挙げる。で、後になり実態を知ると、「偽物を掴まされた」と騒ぐ。

 基本は、眼が利かぬ者のする振る舞いで、加えて判断力も度胸も無いということ。

 自分なりの見解をもって判断を下したなら、当然、その責任は自分自身が取ることになる。

 この世界には他人のコレクションを覗き見て、「これを抜いてやろう」と考える者ばかりが多く、正直、人間的に尊敬できる人が少ないと思う。

 

 若者に対して「古銭など見ていないで外に出ろ」と言うのはその点だ。

 コロナが一段落すれば、世界に出て行ける。

 自分自身をビニールホルダーに押し込めて、青錆を浮かせるようなことはやめて、マチュピチュでも見に行った方がひととしての器が広がる。

 沖縄の首里城を見物に行き、崩れた崖の下から中山通寶を見付けた人がいるが、そんな事態だって起きないとも限らない。まさに一石五鳥。

 

 かなり脱線した。やや口が悪いのは、体調が悪いからで、心中には怒りが渦巻いている。

 いつも通り、一発書き殴り。

◎古貨幣迷宮事件簿 「J11 創作銭三種」

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創作銭三種

◎古貨幣迷宮事件簿 「J11 創作銭三種」

 こういう品は他の人に渡すと問題が起きやすい。「これは参考品ですよ」と渡しても、さらにその次の人に所有が移った頃に、「蔵から出ました」「家族の持ち物でした」「よく分かりません」と世に出て来る。

 だが、製作の研究に必要な人もいる。実際、これらを観察することで、後作品の特徴や目の付け所の勉強になった。

 この程度なら、過去に見たことが無い人でなければ、本物と見間違ったりはしない。

 これという品なら、まずは輪側を見れば簡単に分かる。

 ルーペでは見えにくいこともあるだろうから、マイクロスコープを買うと良い。たった三千円程度で、見える世界が変わる。

 創作銭であることを明記して、資料を残せば、「蔵から出ました」に心を動かされる人が減ると思う。いずれHPの方で、研究用途として売却する。

 

寛永通寶当四 逆ト原母

 面背を見ると、誰もがドキッとするらしく、先輩方からも「譲ってくれ」と言われた。拓本であれば輪側が見えぬから、余計にドキッとしただろうと思う。

 有名参考品だったようで、売価も結構な値段だった模様。

 輪側を見ると、グラインダで仕上げているから、途端にがっくりさせられる。

 こんな仕上げの品を本物と見紛う者は居ない。

 地金も作りも「背ト」の系統とはまるで違うわけだが、製作意図は何だったのか。

 大きく・厚く・角が立っている特徴は、原母の作り初めの頃のもので、汎用母に近付けるには、ここから鋳写して輪を研磨する必要がある。

 これを台にして、母銭を作り、さらに鉄銭を作ることまでを想定していたのかもしれぬ。要はこのまま写したのでは、通用銭サイズのものが出来ぬということ。

 鉄銭まで至れば、区別がつき難かったと思うが、鉄銭では素材をそれらしく鋳出すのが難しい。今とは鉄の鋳造方法が違うので成功は出来なかったと思う。

 

②O氏仰寶鋳放

 O氏作は多くの人が「とりあえず入手した」わけだが、この「鋳放し仰寶」はまだ下手な方で、事実上、練習台だ。これより精巧に出来ている希少銭種が幾つかある。

 とりあえず、この地金の雰囲気を覚えて置くと、「こういうのもあるかも」と思わずに済む。少しでも似ているだけでダメだと思った方がよい。

  豆板といえ、穴銭といえ、O氏作は精巧で、かつ何段も言い訳を講じてある。

 これが作品だと朱書きを入れてあるのは、すぐにそれと分かる品だけ。

 一度に何十枚も入札に出たところを見ると、「研究目的だった」という言い逃れは通用しまい。浄法寺系の品などは、「浄法寺銭を知る人」のいる場所を避けた地域の入札誌に出された。そんなことは知らぬから、この手の品を買ったのは地元の人だ。

 よって、「地元の人が持っていた品だから」と見なすのは禁物だ。その人も入札で買っている。

 製作をぎりぎりまで研究する他は無いが、それを面倒だと思う者は、印象だけで全部が偽物だと語る。偽物の多くは、別の土地に住む者が作っているから、例え幾ら似せていても、本物だけを見て来ていれば、いずれはそれと判別出来る。

 「一定の鑑定眼が出来るまで、本物と偽物を並べて置くな」と言われるのは、そういう理由だ。とりわけ若手は、偽物など見ずに、ひたすら本物だけを見て、収集すると良い。

 O氏作がイカサマなのは、「湯口残り」なのに、他の部分を軽く整えてあるところだ。見栄えを良くしようと思ったということで、手順が明らかに異なる。

 通用子銭を大量に作る段階に至った銭種では、未仕上げの母銭など存在しない。

 母銭製作の工程は終了しているので、総て仕上がっているか、廃棄されている。

 

③合金寛永

 このタイプはかなり前から存在しているようで、三十年くらい前にも全国の雑銭から出現している。数が目につくようになったのは二千年以後だと思うが、雑銭にさりげなく混ぜられていた。

 当初は白銅か、ことによると銀銭かもしれぬと考えさせられたのだが、机の上に放置して時間が経過しても色が変わらない。銀銭なら半年、白銅なら一年二年で黒く替わる。

 鹿角の雑銭から純白の寛永銭が出たことがあるが、単に未使用状態に近かっただけのようで、数年で真っ黒に変わった。外見が黒く見える密鋳銭は、出来立ての段階では、真っ白だったわけだ。実際、白銅銭は次第に黒くなるものがほとんどだ。

 最近の品は、ほぼ意図的に配合されていると見られる。

 概ねタングステン合金だと思うが、大陸の手法だから、「彼の地で日本の古銭が贋作されている」傍証のひとつではないかと思う。

 タングステン合金は作るのが簡単なので、型取りの練習になる。

 成分分析をすればはっきりするが、この分析は安価ではない。偽物を偽物だとする証拠を得るために、大枚の金を払う必要はなく、「一定期間、机の上に放置する」だけで済む。

 

 ちなみに、創作銭だからと言って安く出すと、ネットオークションで「1円釣り」の素材になると思う。画像への思い込みで値が上がる。よって、それなりの値段、すなわち売られていた時の半値くらいの設定にする予定だ。製作を勉強しようと思う者にとっては、全然高くない筈だ。

 

注記)いつも通り記憶のみで書いており、一発殴り書き。推敲も校正もしない。よって不首尾はあると思うので念の為。「見れば分かる」画像を添付してある。