日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

郷里への電話

このところ多忙で、しばらくの間郷里の実家に連絡していませんでした。
電話を掛けると、3回のコールで母が出ました。

「元気にしてた?風邪を引いていない?」
季節の変わり目です。郷里ではそろそろ霜の下りる季節。

「一昨日、夜中に救急センターに行ったよ」
老母は夜中に脇の下が苦しくなり、「もしかして心筋梗塞か」と疑い、急いで家人に救急センターに連れて行ってもらったとの由です。
「でも、別に異常はなくて、単なる筋肉痛だったかも」

母は半年くらい前にも、救急センターに運び込まれたことがあります。
この時は脳の細い血管が破れたせいで、血圧が急に200を越えてしまったからで、この時も家人が自家用車で連れて行きました。
救急センターでは、救急車で運び込まれる急病人が優先的に処置を施され、診察を受けるまで1時間半も待ったようです。
診察に出たのは、大学を出たてのインターンの女医で、「教科書どおりに」血圧を下げる薬を処方しました。
これがかなり強い薬だったらしく、口中に薬を噴霧すると、すぐに血圧は50まで下がりました。
当然、母の意識は薄れてしまいます。
他の部署からベテラン医師が何人か飛んできて、大慌てて処置したとのことです(付き添っていた父の話)。
その後は「医者に殺されなくてよかったね」と何度も冗談にしていますが、やはり少しでも異常を感じた時には救急センターに行くようにしているようです。今はそこにカルテがありますし、自身でも病歴を書いたカードを持っています。

元々、母の持病は心臓で、心房に異常があります。
私が小学生の頃には、母はこの病気のせいでほとんど病院にいましたので、月に1度か2度ずつ見舞いに行ったものです。
実家から母の病院までは片道1時間半ほどかかりました。
父は頻繁に見舞いに行っていたと思いますが、学校のある兄と私は、休日にそれぞれ1人でバスに乗り、半日ほどそこで過ごしました。
何をするということもなくベッドの脇に座っているだけですが、小学3、4年の子どもにとっては、母親の隣にいられるというだけで十分でした。
母が退院したのは私が中学に入ってからですので、5、6年は病院で過ごしたのではないかと思います。
私にとっても、小学生時代の思い出のうち半分くらいは病院の記憶で占められています。

あれから既に何十年も経ちました。
またあの時のように、いずれ母を見舞いに訪れるようになる日が来るのかも。
受話器を持つ手が震え、知らず知らずのうちに涙がこぼれていました。

すっかり子ども時分の気持ちに帰っています。
母のいない家はいつもがらんとしていました。
長患いでしたが、その後母は家に戻ってきてくれました。
本当に有難う。そしてこれからもできるだけ長く生きていてください。
まだ母には返し足りないものがたくさんあります。

感謝の念やこれからのことを祈る気持ちで受話器を置きました。