日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎435日目の画像の補足

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参拝435日目の画像より

◎435日目の画像の補足

 私の背後に男性が写っているが、当初、この男性が現実の人間なのかどうか考えさせられた。撮影した時点で、すぐ後ろに人がいるようには思っていなかったからだ。

 しかし、2枚目の画像には、ほとんど同じ服装をした実在の男性がいたので、「そこにいた」と見なした。少し迷ったのは、背後の人影が女性に見えたからだ。

 

 改めて画像を見ると、その男性の後ろの「もや」が人影で、それも複数だということが分かった。真後ろの人影は男性の腕に掴まっているし、さらにその後ろのは前の人影に掴まっている。

 これで、まずこの男性が実在の人間であることが確定した。

 生身の人間はエネルギーを発しているから、幽霊が寄り付く。逆に言えば、こんな風に寄り付かれるのは、この男性が「生きた人間」だからということだ。

 

 重要なのは、後ろの幽霊が「誰か」ということだ。

 ひとつ目は、この男性の心境に通じるものがあり、後ろをついて来たケースだ。

 ひとの周囲には、常に5体から20体くらいの幽霊がいるが、たまたまそれが見えた。

この場合、ただ共感しているだけで、何をするわけでもなく、ただ傍にいる。

 なお、幽霊が出来るのは「共感」で、映画やドラマみたいな「憑依」は滅多に起こらないので、念のため。こじらせなければ何もしないし、出来ない。

 ただ単に「心境を増幅する」という影響だけが生まれる。

 

 ふたつ目は、たまたま「通り道」の間に入ったケースだ。

 日頃、きちんとお勤めをしているお寺や神社には、幽霊が集まって来る。そこには、そんな幽霊たちの通る「通り道」が出来るから、その間に入った、ということ。

 この神社では、神殿前の左側から中央、中央から右側に回る道筋が、その「通り道」になっている。

 幽霊は自分では移動できず、ひとに寄り添って移動することが多いから、神殿やお寺の中でこういうことがあっても、特に気にする必要は無い。

 

 ここまで来られるのであれば、そろそろ執着心は捨てられる。

 幽霊たちが自我を解放する仕度が出来ているのだから、そのまま通してあげればよい。

 

 「この世ならぬ者」が現われるのは、何らかの明白な理由がある。

 殆どは「自分を見て欲しい」「助けて欲しい」ということだ。

 死後、時間が経過すると、ただ単に叫んでもひとには聞こえないことが分かって来るから、最初に「コイツは自分を見られるのか」「見えるのか」を確かめるようになる。

 画像の中に時折、「片眼」だけが浮かぶことがあるが、これはそういう意図による。

 画像を見る側がその視線に気付くようになると、相手もそれを察し、より一層、「見て貰える」ように振舞うようになる。

 第六感は大半が妄想だが、視線を注視することで、少しずつ高まると同時に、どんどん現われるようになって行く。