◎光が入る(436日目)
常時、自身の状態を観察する必要があるから、外出時に1時間ほど時間が空けば、お寺か神社に参拝・参詣することにしている。
今日も所用の途中から、いつもの神社に向かうことにした。
曼珠沙華の季節はもう終わり頃の筈だが、沿道は見物客で溢れていた。
それでも既に夕方に近い時間帯だったので、渋滞はさほどでもなし。通過する者には助かる。
神殿前では、「これからは死者の救済に力を尽くします。死ぬまで、また死んだ後も続けます。このため、今後は自分の前に何が現われても動じることはありません」と祈願した。
境内には参拝客が沢山いたので、1枚だけ撮影し、かなり離れた参道の中央付近まで移動し、そこで再び遠距離撮影をした。
鳥居を出る時に、何とも言えぬ微妙な感触があった。
昨年、「刀」(たぶん、「剣」の方が正確な表現だ)を拝領したことがあるのだが、その時と似たような感覚だ。
光のようなものが自分の中に入ったような気がしたのだ。
ま、おそらく「気のせい」で、自身が作り出したものだろうが、想像もしていなかったので、少々ドキッとした。
「これは何だろうな。前は刀(剣)だったから、さしずめ・・・」
光っているから、「鏡」とか「玉」なのだろうが、「鏡」はご神体だからこれはない。
「では、玉だ」
胸のところに丸い光が入って来た気がするのだが、どういう意味だろう。何の象徴なのだろう。煙玉は見慣れているが、それよりも明るく光っている。
あれこれ考えつつ歩いたのだが、もちろん、分からない。
「ま、剣の時だって、自然と破魔で使うものだと分かったから、そのうち分かるだろ」
それよりも、今はトラが見当たらないことの方が心に響く。
さほど気にも留めず、帰宅した。
帰宅して、画像を開いてみると、最後に撮影した画像で、よく分からないものが写っていた。
神殿の上がり口には門があるが、その門の内側からこっちを見ている男性の顔半分だけが写っていたのだ。神殿の窓の枠の外にいるから、ガラスに映った人の姿ではないことは確かだ。
「でも、どうして首から下が無いのだろう」
奉納箱の前の参拝客は、男性よりも遠くにいるが、その人たちは明瞭に写っている。
それなら、「たまたま写らなかった」とは考え難い。
まずは逆説の棄却からだが、「そこに人がいた」とするには、そぐわない状況ではないか。
「自然現象が原因でたまたま消えた」は概ね否定される。
そうなると、考えられることは数点だ。
「そこに現実の人がいたが、首から下だけ写らなかった」
この場所はいわゆる「通り道」だから、あの世の住人が多数行き来している。そういう者が、たまたまこの男性の前を通り掛かったから、重なった部分が消えた、というケースだ。
これは私自身には時々ある。真正面から撮影しているのに、私の姿の一部または全部が消えていることがある。
「この世」と「あの世」は、プラス・マイナスの関係にあるから、たまたま波長が同程度のものが重なると、画像から存在が消えてしまう。
なお、腕や足の一部が消失した画像を撮ったことのある人もいると思うが、これはそういう性質のものだから、あまり気にする必要がない。画像に何かが写ったり、消えたりすることには、「特別な理由(多くは良くない)があるから」では、まったくない。
物理的な理由で生じることだから、一切、気にする必要は無い。
問題は「写ったかどうか」ではなく、「その人に関わっているかどうか」ということだ。画像に写った(もしくは、写らなかった)はまったく関係が無い。
あともうひとつのケースは、「そこに現実には、人などいなかった」というものだ。
前述の通り、この地は「通り道」だから、境内には沢山いる。
前回にも、私や他の参拝客の周りに、説明し難い人影が写っていた。
そういう類の「何か」がこっちを見ていた、というケースは充分に考えられる。
男性の視線は私に向けられているが、この男性との距離は40メートル以上離れている。
遠くにいる自分と関係の無い人間のことを注視する者は滅多にいない。
私は小指くらいのサイズにしか見えない筈なのに、きちんと眼を見ている。
なお、男性が実在の人間だったことを想定し、プライバシー保護のため目隠しを付けた。
下の方には、右手が写っているが、もちろん、男性のものではない。
右手は床から1メートルくらいの高さで、ちょうど小学生までの子どもの位置だから、男性が妻子と参拝に来て、子どもが写ったのではないかとも考えた。しかし、この手は大人のサイズだ。正体は不明だが、やはり説明に困る。
ま、「説明のつかない現象」を信じたくない・信じようとしない人が多いから、漠然とした書き方をしたが、簡単に言うと、こういうのが幽霊の典型的な出方だと思う。
ごく普通の人の合間に、ひょろっと紛れ込んでいる。
駅みたいな人込みの中に行くと、時々混じっている。
この傍証のひとつは、男性と右手の間に「眼」が浮かんでいることだ。こういうのは、相手が「見えているかどうか」を確認するものだ。また、まだはっきりしていないが、右下には女性らしき顔が出始めている。
そう言えば、数日前に某駅の構内に足を踏み入れたが、「こんなところに入ったら、ぞろぞろと俺に付いて来るだろうな」と感じた。
そこで、早くお寺か神社で下ろそうと思っていたから、この日、ここに来たわけだ。
今回、「玉」が入ったので、今後はさらに見られ易くなり、一層、「寄り付かれる」と思う。
だが、以前とまったく違うのは、そういうことを「嫌だ」とは思わなくなったことだ。
既に「私は死者の側に立ち、執着心を解き放つ手助けをする」と宣言しているので、私とあの世の住人の双方とも相手に「怖れ」を感じる必要は無くなっている。
「新しい段階が始まっている」と実感するのは、今日の画像が「ガラスに写った人影」ではなく、直写したものだということだからだ。これからは、普通に景色を撮影しても、頻繁に顔を出されるのかもしれない。
もちろん、一切が「想像や妄想」かもしれないが、どちらかと言えば「妄想」であって欲しいと思う。
その方が煩わされずに済む。