日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎謎が少し解ける(443日目)

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443日目の参拝

◎謎が少し解ける(443日目)

 21日の夜、居間に座っていると、すぐ目の前にあったテーブルの上の化粧品のボトルが、「バタン」と音を立てて床に落ちた。

 これでこの3日で2度目だ。

 今回はきちんと顔を向けていたから、「説明のつかない」落ち方だとはっきり分かった。

 何か訴えたいことがあるのだ。

 物理的現象は、映画や小説には沢山出て来るが、現実には滅多に起こらない。多くは振動や水蒸気など別の要因がある。

 当家でも、T沢に住んでいる時には、戸棚にきちんと並べていた食器が床に落ちたり、テーブルの上の皿が50センチくらい横に滑ったことがある。皿は下に水蒸気が篭っていた時などに動くものだが、その時は冷たい皿だった。

 

 「はっきりとは分からんが、『来てくれ』という意味じゃないか」

 基本的に、こういうのはメッセージだ。

 ひとは「霊に関わる物語(多くは恐怖を語る)」や自称霊能者の「想像や妄想による因果」に毒されているから、とかく霊(幽霊)を忌避しがちだ。しかし、それを「誰にでも起きる普通のこと」と見なせば、恐怖心が無くなり、冷静に受け止めることが出来るようになる。

 「俺はなるべく手を差し伸べると約束したっけな」

 そこで、すぐに行くことにした。

 私を呼んでいるのは、おそらく、この日画像に写った母親だろう。あの女性の視線はまっすぐ私のことを見詰めていたし、「助けて」とも言っていた。

 

 なるべく余計な風説を起こさぬよう、ただの「神社」と記しているが、調べれば場所は分かる。

 きちんと毎日お勤めをし、人々が祈念をするような神社やお寺では、霊の「流れ」または「通り道」のようなものが出来るから、この神社に限ったことではない。

 私自身に関して言えば、これという神社やお寺では必ず同じことが起きる。

 中を歩いて見て、境内に塵が見当たらないようなら、毎日、きちんと管理をして、務めを果たしている。そういうお寺や神社には、交流点が生じやすくなる。

 そういう意味では、この神社は非常にしっかりした神社だと言える。

 

 もし自身の霊感が、想像や妄想だけでなく何らかの根拠に触れているかどうかを確かめたいのなら、こういう神社やお寺に行き、自身の姿を撮影してみるとよい。

 ほとんどの場合、何も起きない。

 私がこれに気付いたのは、何百回かの参拝を経た後だ。

 また、「何も起きない」のは、「あの世との間に間隙がある」ということだから、むしろ幸いな状況だと言える。

 私が様々見たり聞いたりするのは、「病気に冒され、死がそんなに遠くない」ことと無縁ではない。

 このため、総てが「気のせい」「想像や妄想」によると言っても、誤りではない。自分自身の状態に関わっているからだ。

 

 ともかく、ここで確かめようと思う者に、2つのポイントを示して置く。

 この二つは交流点で、割と写り易い。先方が目に留めれば、姿を現してくれると思う。

 もちろん、気をつけねばならない点もある。

 返す返す書いているが、必ず「死者に敬意を持つ」ことが必要だ。

 面白半分や好奇心から交流点に立ってはならない。すぐ傍には「通り道」があるから、それを妨げたりかき乱すと、悪影響が生じることがある。

 これは何か「凶事が起きる」という意味ではない。それこそ小説や映画での話で、生存中にはほとんど何も起きない。「祟り」が起きるのは、その人が死んだ後で、それは際限なく続く。ある意味、映画や小説よりもはるかに恐ろしい。

 私が「現実の幽霊の姿を見ればよい」と勧めるのは、現時点で「居ない筈のひとの姿が見え、声が聞こえる」者に対してだ。現実を見れば、謂れ無き苦痛の要因が分かる。

 自分なりの対処の仕方が見えて来る。

 

 さて、境内に入ると、すぐに祈念した。

 母子が写っていたが、本体は母親で、子どもはその母親の念によって生じた像だと思う。

 「どういう事情でそこに留まっているのかは分からないが、もう死んだのだから、子どもに執着しないほうがよい。貴女のお子さんは、もう大人になっているかもしれない。子を育て、孫までいるかもしれない。生きている者のことは、生きている者自身が考えればいいんだよ」

 こういうのは声に出して言う必要があるから、参拝客の多い土日には出来ないが、幸いこの日は月曜だった。

 「俺にも子がいるが、やっぱり一番楽しかったのは、子どもたちが3歳4歳と小さかった時だ。今もその時の子どもたちの手の感触を思い出すものな。貴女の気持ちはよく分かる」

 

 神殿の前では、母親が安らぎを得てくれるよう願った。

 それから2箇所で撮影したが、もし願いが通じていれば、何も出ずクリアな画像になる。

 後で開いてみると、うっすらと霧が出ている箇所があった。

 小雨交じりの夕方だったから、撮影条件が悪く、明瞭には写らないが、幽かにひとの姿が見えていた。

 よく見ると、それは幼児がベッドに寝ており、それを囲んで、人々が嘆き悲しんでいる情景だった。

 

 「なるほど。子どもに先立たれたから、嘆き悲しんでいるわけだ」

 子どもを残して自分が先に死んでしまったので、そのまま留まっているのかと思っていたのだが。

 子どもが死に、失意の内に自身も死んだから、こうなったわけだ。

 もちろん、こういうのは想像に過ぎないが、心境は遠くないと思う。

 「それでは仕方が無い。泣き疲れるまで、繰り返し泣くとよい。いつか気が鎮まるまで俺が見守ってやろう」

 私の子どもたちはもう大人になっているが、しかし、常に各々のことを案じている。

 繰り返し、子どもたちが小さかった頃のことを思い出す。

 この女性の嘆きの深さは想像に難くない。

 

 画像は他の人にはほとんど判別がつかないと思う。

 こういうのは、特定の相手、すなわち私に対するメッセージだから、私が分かればそれでよいという理屈だ。すなわち、私以外の者にとっては、単なる「妄想」になる。

 もちろん、私にはただの想像や妄想に留まらない意味がある。