日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎寛永通宝 八戸背盛 母銭

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八戸背盛 母銭

寛永通宝 八戸背盛 母銭         暴々鶏

 この品にはO氏の思い出がある。

 かなり前の話になるが、Nコインズの店頭を訪れた時のことだ。

 O氏がすぐにこの品を出して、「どう思う?」と私に訊ねた。

 手の上に載せてみると、風貌は似ているが、浄法寺銭(山内、称浄法寺含む)とは思われない。

 「これは浄法寺銭ではないですね。鑢がどちらかと言えば縦方向だし、八戸の写しではないかと思います」

 密鋳銭なので、輪側の鑢はランダムに入っているが、横に入れたものではない。

 O氏は頷き、「よく分かったね。研究してみる?」と答えた。

 「はい」と言うと、「じゃあ、譲ってあげる」。

 値段は背盛としては、「もの凄く高額」だった。それも当たり前で、八戸の当四銭写しは時期が古く、天保期くらいには大掛かりな鋳銭が始まっている。

 その時代には、横鑢用の装置が無く、一文銭と同様に縦に粗砥を掛け仕上げた。

 背盛自体は幕末のものだが、八戸地域では装置が割と簡単な粗砥掛け方式が残っていた、という解釈である。

 地金が紫褐色で、銭径が25.4mmと超小型。

 銭径が小さいのは、一文銭の仕掛けを利用して仕立てたからだろう。もちろん、なるべく小さいほうが鉄材を節約できるという利点もある。

 

 「ちょっと見」では山内銭に似ているが、まったく違う。

 地元以外では、山内座銭も称浄法寺銭も区別がつかない人が大半だから、浄法寺銭コレクションの中に混じっている可能性があるが、今のところこの1品しか見付かっていないようだ。

 O氏が急逝してから、もう幾年も経つ。

 東北地方には、コイン専門店はおろか古道具店もめっきり減った。

 店頭で無駄話をする機会が無くなったから、寂しくなった。

 ネットの話は底が浅いし、微視的過ぎると思う。

 ま、時代の変化と共に物事のあり方も変わる。老兵は去り行くのみ、ということだ。