日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎渦

「渦」

 どうやら、「あの世」に関する私の説は、かなり核心を突いているらしい。

 木曜の夕方、台所に立っている時に、「最近はあまり出なくなった。あれほど気配があったのが、パタッと無くなると、逆に不安になる」

 二十年前から、当家では「深夜、玄関の扉を叩く音」が聞こえたが、それがここ一年ほど前からは、家の中を歩く気配に変わった。カウンターの脇に人が立っている気配がすると気があるし、着物の袖や手の先が見えたりもしたのだ。

 とりわけ台所に立っている時は、頻繁に廊下の足音耳にするし、柱の後ろに人がいる気配を覚えたのだ。

 それが最近はすっかり無くなっていたのだ。

 

 しかし、それも「他のことに気を取られていた」だけだったらしい。このところ、新しい病気のことで頭が一杯だから、別のことに気を払う余裕が無い。

 この日はきちんと、従前のように起きた。

 最初は足音だ。玄関の扉付近で小さく「カチャ」という音がして、廊下を歩く足音が近付いて来る。

 「女房が帰ったのか」とも思うが、しかし、まだ帰宅時刻ではない。妻が帰るのは一時間ほど後。息子は八時頃にならないと戻らない。

 「気のせいだったか」

 するとその直後、テレビの前を黒い影が横切った。

 一瞬だから、「テレビ電源がたまたま跳ねたのか」と思う。

 これは時々ある。

 しかし、再び、割とはっきりとした黒い影がテレビの前を通り過ぎた。

 「そう言えば・・・。上からの照明、台所の照明、カウンターの灯り、テレビと光が交錯している環境だ」

 神殿の前の構図とは違うが、光量や強度は充分だ。

 

 その数分後が本番だった。

 今度はただの影ではなく、人型のシルエットが目の前を通り過ぎたのだ。

 霧の中にモノクロの映像を投影したような像がすうっと視界正面を横切る。

 はっきりとは見えないのだが、着物姿の女性で、たぶん五十台。

 最初は「喪服のような着物だ」と思ったのだが、袖に模様があり、地味な柄の着物だったということだ。

 視界の「隅に姿が入る」のではなく、まともに目の前で見たから、少なからず驚いた。

 こういうのはほとんど経験が無い。

 「そんな気がした」という次元でもない。シルクスクリーンの向こう側を人が歩くのを見ている。

 

 人間の可視域は、体調や周囲の環境によって、日々変動しているらしい。

 広がったり狭まったりと、ものが見える範囲が異なるわけだ。

 幽霊はその可視域と不可視域にまたがって存在しているから、見えたり見えなかったりする。人によっても違うし、その時々でも違う。個人差やTPOによる違いがあるわけだ。

 たぶん、音も同じで、単純に可視域、可聴域の幅の問題だ。

 

 そうなると、幽霊が特別な場所だけにいるわけではなく、そこら中にいるが「見えないだけ」という説には信憑性が出て来る。

 建てられてからまだ日が経っていない旅館の中だろうが、山の上のお花畑の中だろうが、そこを通る者(幽霊)がいて、かつ波長が合えば、それを目にすることがあるし、写真にも写るということだ。

 

 問題は、ではどんな存在なのか、ということだ。

 「影が写る」ことがあるところを見ると、物理的に存在するものだろう。

 だが、「もの」という表現は適切ではないかもしれない。

 例えて言えば、「渦」に近い存在ではないのか。

 渦は目に見えるし、力も持つが、実体としてのものではない。

 水を幾ら観察しても、渦を掴まえることは出来ない。

 水の流れの中に生じる現象だからだ。

 人は生まれ落ちてから死ぬまで、心臓が一定のリズムで血流を送り出している。電気的なネットワークがあり、常に交信している。

 自我は、そういう流れの中に生じる「渦」ではないのか。

 

 人が死んでも、暫くの間、渦は残るが、渦を生み出した源が消滅したわけだから、いずれは消えて行く。そう考えると、「誰でも死後、一旦は必ず幽霊になる」という現象の説明がつく。

 あとは実証だ。これまで通り、例え少しずつでも、「渦が存在する」という証拠を集めていく必要がある。「私(だけ)には見える」では話にならない。

 「誰もが認識できる」ものとして提示する必要がある。

 

 シルエットの女性はおぼろげだったが、どこかに向かおうとしていた。

 私の存在には気付いていなかったようだが、もう少し波長が合い、姿が見えるようになれば、こっちを向いたと思う。

 最近分って来たことだが、こちらから相手(幽霊)が見える時には、相手からもこちらが見える。写真に幽霊の姿が写ることがあるわけだが、鮮明に写る時には、必ず私のことを見ている。

 おそらく、普段、幽霊は生きている人を認識できないのではないか。