◎「真怪」はほとんどない(451)
家人が前にいた学校では、例年、新学期早々に、先生が怪我をしたり病気になったりする。それが「他校よりかなり多い」し、「重い怪我や病気になる」から、尋常ではない。
「そう言えば、ここは元々、湿地だったのを埋め立てて学校にしたところだし、かなり古い設備がそのまま残っていたりする」
戦前の防空壕の跡が残っているらしい。
そこで言われるようになったのは、「何か差し障りあるのでは」「呪いがかかっているのでは」という話だ。
正直、真に「愚か」だと思うのは、目の前の不都合な出来事を因果に結び付けようとするところだ。
中高年が病気になるのは当たり前だし、新しい任地に不慣れな者が転んだり、事故を起こすのもありがちなことだ。
30人の教員のうち、3人が病気や怪我になったのなら当たり前だが、「5人なら7人なら」どうなるの?
冷静に考えると、別に異常な傾向ではないと言える。
教員の全員が一時(どき)に、理由の分からない病気で亡くなったのなら、話は別だが、いくらでも説明がつきそう。
で、本題はここから。
もし、異変を感じ、何らかの圧力を覚えるのなら、すぐにご供養をし、お払いを施せばよい。一度で収まらないのなら、繰り返し行えばよい。
少なくとも、死者または人知の及ばぬ力に敬意を示し、受け入れて貰えるようにお願いをすれば、大半は鎮まる。
こういうことで騒ぐ者は、ただ「恐ろしい」と騒ぐだけで何もしない。いよいよとなったら、祈祷師や神職にお祓いを頼むのだろうが、自分では何もしないことが多い。
本当に呆れる。
日頃から、死者を軽んじる一方で、ホラー小説や映画などの作り話、自称霊能者の語る因果めいた話に毒されているから、妙な思考にはまり込んでしまう。
繰り返し書くが、異変を感じる場合は、迅速にご供養をし、地鎮際を行うなど御祓いをすればよい。それで少なくとも、自身への負い目が小さくなる。
何もせず、「障りがある」「祟りがある」と騒ぐことほど愚かなことは無い。
かつて、井上円了先生は、「天地自然の道理をもって説明し得べからざるものにして、真の不思議と称すべきものなれば、これを超理的妖怪すなわち真怪と名づく」と語った。
よくよく観察し、それでも「説明のつかない」ものが本当の異常・超常現象なのであって、大半はそれに似た現象に過ぎない。
むやみに「障り」や「祟り」を持ち出すのは、迷信でしかない。
これは明治時代だけでなく、今も同じ。
実際、死霊の念の力がひとに凶事をもたらすような事例は殆ど無い(ゼロではない)。
悪縁の多くは、心に働きかけ、無用な「諍い」を多く生じさせたりするが、それだけである。「疑いを持たせる」のも、悪縁のひとつであるから、「ここには悪縁がある」と思わせるのも、悪縁の一種なのかもしれないが、それを自覚し、ご供養をすればそれで済む。
いつも書く通り、「死者に敬意を払うこと」が基本だ。
今日の画像は、日光不足だった上にカメラの性能が良すぎて、ガラス戸の中が鮮明に写った。次からは時間帯を替える必要がありそう。
最初にファインダで覗いた時には、私の後ろに女性が見えていたが、いつもの女性の顔だった。もちろん、今回のは完全に「気のせい」によるもので、私の願望だ。
そこで、神殿前では「死者たちが心安らかに昇華できますように」と祈願する一方で、「ツケも払ってね」と付け加えた。
あの世の者は、嘘は言わぬしごまかしもしないから、きちんと返してくれている実感がある。「気のせい」に過ぎぬだが、こういうのは受け入れるべきだ。
無用な怖れを撒き散らすわけではなく、希望を貰う分には「気のせい」でも構わない。
いろんな病気がこれ以上進まぬように、現状で留めて置いて欲しい。