日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「真怪」はほとんどない(451)

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11月12日(451)の画像

◎「真怪」はほとんどない(451)

 家人が前にいた学校では、例年、新学期早々に、先生が怪我をしたり病気になったりする。それが「他校よりかなり多い」し、「重い怪我や病気になる」から、尋常ではない。

 「そう言えば、ここは元々、湿地だったのを埋め立てて学校にしたところだし、かなり古い設備がそのまま残っていたりする」

 戦前の防空壕の跡が残っているらしい。

 そこで言われるようになったのは、「何か差し障りあるのでは」「呪いがかかっているのでは」という話だ。

 

 正直、真に「愚か」だと思うのは、目の前の不都合な出来事を因果に結び付けようとするところだ。

 中高年が病気になるのは当たり前だし、新しい任地に不慣れな者が転んだり、事故を起こすのもありがちなことだ。

 30人の教員のうち、3人が病気や怪我になったのなら当たり前だが、「5人なら7人なら」どうなるの?

 冷静に考えると、別に異常な傾向ではないと言える。

 教員の全員が一時(どき)に、理由の分からない病気で亡くなったのなら、話は別だが、いくらでも説明がつきそう。

 で、本題はここから。

 もし、異変を感じ、何らかの圧力を覚えるのなら、すぐにご供養をし、お払いを施せばよい。一度で収まらないのなら、繰り返し行えばよい。

 少なくとも、死者または人知の及ばぬ力に敬意を示し、受け入れて貰えるようにお願いをすれば、大半は鎮まる。

 こういうことで騒ぐ者は、ただ「恐ろしい」と騒ぐだけで何もしない。いよいよとなったら、祈祷師や神職にお祓いを頼むのだろうが、自分では何もしないことが多い。

 本当に呆れる。

 日頃から、死者を軽んじる一方で、ホラー小説や映画などの作り話、自称霊能者の語る因果めいた話に毒されているから、妙な思考にはまり込んでしまう。

 繰り返し書くが、異変を感じる場合は、迅速にご供養をし、地鎮際を行うなど御祓いをすればよい。それで少なくとも、自身への負い目が小さくなる。

 何もせず、「障りがある」「祟りがある」と騒ぐことほど愚かなことは無い。

 

   かつて、井上円了先生は、「天地自然の道理をもって説明し得べからざるものにして、真の不思議と称すべきものなれば、これを超理的妖怪すなわち真怪と名づく」と語った。

   よくよく観察し、それでも「説明のつかない」ものが本当の異常・超常現象なのであって、大半はそれに似た現象に過ぎない。

   むやみに「障り」や「祟り」を持ち出すのは、迷信でしかない。

これは明治時代だけでなく、今も同じ。

 

 実際、死霊の念の力がひとに凶事をもたらすような事例は殆ど無い(ゼロではない)。

 悪縁の多くは、心に働きかけ、無用な「諍い」を多く生じさせたりするが、それだけである。「疑いを持たせる」のも、悪縁のひとつであるから、「ここには悪縁がある」と思わせるのも、悪縁の一種なのかもしれないが、それを自覚し、ご供養をすればそれで済む。

 いつも書く通り、「死者に敬意を払うこと」が基本だ。

 

 今日の画像は、日光不足だった上にカメラの性能が良すぎて、ガラス戸の中が鮮明に写った。次からは時間帯を替える必要がありそう。

 最初にファインダで覗いた時には、私の後ろに女性が見えていたが、いつもの女性の顔だった。もちろん、今回のは完全に「気のせい」によるもので、私の願望だ。

 そこで、神殿前では「死者たちが心安らかに昇華できますように」と祈願する一方で、「ツケも払ってね」と付け加えた。

 あの世の者は、嘘は言わぬしごまかしもしないから、きちんと返してくれている実感がある。「気のせい」に過ぎぬだが、こういうのは受け入れるべきだ。

 無用な怖れを撒き散らすわけではなく、希望を貰う分には「気のせい」でも構わない。

 いろんな病気がこれ以上進まぬように、現状で留めて置いて欲しい。