日刊早坂ノボル新聞

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◎戦国時代の女性は「名無し」

◎戦国時代の女性は「名無し」

 平安時代には、財産を継承するのは女性だったのに、武士が世の中を支配するようになると、女性の地位が著しく下がった。

 戦国時代になると、書き物に名前すら書かれなくなる。

 大体は誰それの「室」とか「女(むすめ)」だ。「誰それ」の付帯物でしかなくなるわけだ。

 

 戦国末期の八戸には八戸政栄という武士がいて、これがかなり優秀な人物だった。

 政栄は産業の振興を図り、領民が飢えて死ぬことがないように心を砕いた。

 この辺一帯は「糠部(ぬかのぶ、今のぬかべ)」と言ったが、国司の系統を受け継いでいたのはこの八戸家で、南部家はむしろ傍流だった。

 南部晴政が弟の石川高信、その子の信直によって謀殺されてから、家督相続で揉めたのだが、本来、八戸が継ぐべきところがそうならなかった。その理由は、八戸政栄は「眼が見えなかった」からだと思う。

 この辺の詳細は明らかではなく、「北信愛が説得して」とのみしか分らないが、状況的にはそうなる。

 政栄は養子だったが、自身も子をもうけることが出来ず、自身の出た新田氏から養子(直栄)を貰っている。このことも一因だ。

 

 その八戸政栄は、すぐ目と鼻の先に櫛引という宿敵を抱えていた。

 櫛引は、元々、八戸の分家みたいな立場だったが、戦国末期には、土地や水利の争いで、死闘を繰り広げるようになった。

 天正19年に、ついに政栄は櫛引を攻める。

 櫛引家は河内守清長と左馬助清政という兄弟が、それぞれ櫛引城、法師岡館を拠点としていたが、八戸政栄は、まず櫛引城を落とし、次に法師岡館を攻めた。

 事前に周到な準備をしていたのか、兵士の数で圧倒したらしい。

 まず櫛引清長が逃げ、次に櫛引清政が少数の家来を連れて、九戸政実のいる二戸に向かった。

 その時に、法師岡館に残り、敵を引き付けたのが、なんと女性で、櫛引清政の妻だった。

 この「櫛引左馬助の室」は、僅か十数人の年寄りを指揮して篭城戦を展開した。

 敵の兵団は数十倍の規模だから、もちろん、歯が立たない。

 ところが、この「室」は数日の間、押し寄せる八戸軍を撃退して館を守った。

 八戸は自分の城を留守にしているから、後方に不安を抱える。城攻めが長期化すれば、自分の城が攻められる惧れがある。

 たぶん、この「室」が想定したのは「十日間」くらいだったのだろう。

 それくらい持ち堪えれば、八戸軍は撤収すると見込んだ。

 

 業を煮やした八戸軍は、一計を講じる。

 法師岡館の裏門に地元の商人を送り、中に食糧を渡しつつ、「開門すれば命は助けてもよいと言っている」という風聞を流したのだ。

 中にいたのは、年寄りの隠居侍か用人だけだから、この数日でかなり体力を消耗させていた。

 そこで、翌日、中の数人が独断で門を開き、降伏したのだった。

 しかし、戦国の常だが、「命は助ける」という話はまるっきり嘘だった。

 中にいた者は結局、皆殺しになった。

 

 この「櫛引清政の室」というのが、どうしても気になってしまう。

 残っている逸話はごく数行で、「家来が開門した時に、『愚か者』と叫んだ」とかいないとか、の断片的な言い伝えしかない。

 それこそ、ドラマは数々あっただろう。

 「ダンナの命を救うために、自ら篭城戦を挑む」みたいなところは、本当に惚れ惚れする。行き着く先は、ほぼ「死ぬ」ということだけなのに、それでも戦うわけだ。

 「命を助ける」は単純な助命ではなく、「生き残らせて八戸に復讐をさせる」という意味だから、肝が据わっている。

 男でもなかなか出来ないことなのに、それでいて「櫛引清政の室」としか記されていない。

 羽柴秀吉に関する「作り話」よりも、はるかに心が揺さぶられると思う。

 いつも思うし、文にも記すことだが、「秀吉好き」のオヤジは多いけれど、その好む部分は概ね作り話だ。

 奥州の戦国史の中で、「櫛引の室」の展開はどきっとするし、心惹かれる。

 

 絶対にこの「櫛引左馬助の室」を表に出そうと考えて、時々、素材にすることにしている。やはり名前がないと人格を作り難いから、私の小説の中では「篠」という名前を与えてある。

 「スゴイ」のは、法師岡館はあくまで「館」で、石垣とか城壁などはなかったことだ。一斉に攻め寄せれば、簡単に討ち入ることが出来そうなのに、「どうやって守った」のだろうか。