◎棲み分けが必要(455)
もはやどこでも、つい気を許すと、説明に困るものが写る。
この場合、「気を許す」とは、撮影直前に「写るなよ」と言い忘れることだ。
事前に断るとあまり出なくなる。
ま、写ったとしても、鮮明には撮れないので、気にする必要はなし。通りすがりの通行人・通行霊をいちいち気にするほど暇ではない。
秩父からの帰りに、いつもの神社に参拝した。
環境条件が悪いので(日光不足)、木の葉が完全に散ってしまうまで、「神殿前で自身を確認する」のは難しくなっている。
それでも、逆に私の方の感度が上がっているので、気付くことが多々ある。
もちろん、そういう場合、他者の理解や共感は得られないが、そんなのはどうでもよいので、記録は記録として残すことにした。
こういうのは「受ける」ためにやっているのでは毛頭なく、「どう生きるか」「死後どうすればよいか」を自分自身が知るために考究しているわけだ。
神殿では、昨日の老婆を念頭に置き、「間に線を引き、お互いにそこから出ないようにしよう。生きている者にちょっかいを出せば、消散するまで追い詰めるぞ」と告げた。
いずれにせよ、いずれ私が死ねば、会うことにはなるのだから、どう対応するかはその時の話だ。