日刊早坂ノボル新聞

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◎「花は咲く」

◎「花は咲く」

  楢山佐渡は幕末の盛岡藩家老だが、弱冠二十三歳でこの職に就いている。

 元々、要職の家柄だったし、叔母が藩主利済の室だから、次の利義、その次の利剛とは従兄弟だった。部屋住の立場で加判役となったが、この時に三閉伊一揆が起きた。

 この時、藩主利剛に意見書を出したのが認められ、家老見習に昇格し、翌年に家老になった。

 慶応年間の足跡は広く知られている。慶応三年更に四度目の加判役に復職、御勝手御用懸、御銅山懸および武者奉行など軍事関係を担当した。そして奥羽列藩同盟に参加して、慶応四年に秋田戦争を指揮し、敗戦。佐渡は刎首刑に処された。

 

 とまあ、表の歴史は地元の者なら大体は知っている。

 だが、佐渡には歴史書に書かれていない別の顔がある。

 慶応三年に御銅山懸になるのだが、これは尾去沢銅山の経営に関するものだ。この時、佐渡は浄法寺村で、天保銭の密造を試みている。

 尾去沢の産銅を浄法寺に運び、そこで銭を一万二千両密造した。

 もちろん、私利のためではなく、藩の経営のためだ。

 場所を浄法寺にしたのは、尾去沢から隠密裏に運ぶ必要があったのと、元々の所領が楢山で浄法寺に近かった、という理由による。

 物資の調達には一戸商人が関与した。

 

◆浄法寺山内座の天保銭密造の経緯

 盛岡藩は文政・天保飢饉の後、財政がひっ迫し、七福神札等を発行し資金不足を補おうとしたが失敗した。このため、嘉永年間より銭の密造を計画し、まず文久二年より浄法寺山内座で鉄銭の密造を開始した。大迫外川目銭座の稼働が慶応二年であるから、山内座における鋳銭は公営銭座よりも一年以上前のこととなる。

 山内座では、三年後の慶応三年仲秋(陰暦八月)より、天保通宝当百銭の密造を二回に渡り行った。その第一期が慶応四年四月まで、第二期が同年五月より七月までとされる。

(以上、新渡戸仙岳『盛岡藩内に於ける天保銭の中、山内天保銭に就いて』による)

 第一期の鋳造量は五千両、第二期は七千両であり、これを一両四十枚で換算すると、それぞれ二十万枚、二十八万枚となり、合計では四十八万枚となる。

 

 銭の密造は大罪で、それが「藩が行った」と露見すると、取り潰しになる可能性がある。

 そこで、あくまで楢山佐渡が「個人的に行わせた」ものとするために、密造の期間には、佐渡は病気を理由に蟄居し、川井村に領地を移している。

 病気は表向きの話だから、すぐに復職した。

 

 楢山佐渡と言えば「忠義の人」というイメージだが、「律儀な地方官僚」のような姿を思い描くと、実際の人物像とは少し違って来る。

 藩主と親戚だから、終始、藩の側に立つのは当然だが、若者らしい律儀さだけではなく、「銭が無ければ作ってやれ」という発想も出来た。

 この辺、裏の歴史を知れば、幕末の地方史を理解する上でも膨らみが増すと思う。

 

 しばらく前から、この辺の顛末を物語にするにはどうすべきかを思案している。

 学校で習うような上っ面の話にしたのでは、まったく面白くないからだ。

 「偉人伝」など糞喰らえではないか。

 プロローグは天保五年だ。楢山帯刀(佐渡の父)が巡検史として飢饉の状況を見回るが、野田通りでは、飢餓のあまり「人を食っていた」。

 帯刀は城下に帰って来て、三歳の五左衛門(佐渡)を膝に置き、「どうしたものか」と呟く。

 そこで帯刀は、加賀藩の例に倣い、藩札の発行を進言する決意をする。

 

 しかし、「律儀な役人」の話にしたのではダイナミックさに欠ける。

 浄法寺には実際の鋳銭を担当した男がいるわけだが、藩の話は背景にして、そっちを主役に置く方が面白いかもしれん。

 山(尾去沢)に関係しているのだから、「ヤマ師」みたいなヤツが出た方が楽しい。

 

 ちなみに、藩札は対応を誤り、藩札(七福神藩札)を「不換手形」として大量に発行したので、すぐにパンクした。

 状況はこう。

 藩吏が唐突に金持ちの家を訪れ、蔵を封印しては、「過度に私財を蓄えるのはご法度だから、藩庁が買い上げる」と命じて、その代金をこの札で払った。

 しかし、「銭との交換をしない」決まりなので、ただの紙と同じだ。これでは、領民の不満が増大するが、それを宥めるために「質屋金貸しは受け取りを拒否出来ない」という触れを出したから、城下の金貸しは一斉に潰れた。

 結局、藩札は紙クズになり、藩がこれを回収し、川原で焼いたという話だ。

 この辺から三十年間に渡る裏ストーリーにすれば楽しめるかもしれん。

 

 浄法寺山内で「銭の密鋳を行っている期間」と、楢山佐渡が「川井村で静養している期間」が完全に一致することを発見したのは、おそらくこれが初めてだろうと思う。

 川井村にいる時、佐渡はきっと毎日、ドキドキしながら暮していた。

 そこで密造させたのは、たった一万二千両に過ぎず、ささいな金額なのだが、もちろん、上手く行くようなら大量に密造しようと考えていた。

 しかし、すぐに幕府が倒れ、それどころではなくなってしまう。

 

 佐渡の辞世の句がこれ。

 花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士(もののふ)の道

 

 実際の浄法寺の鋳銭は、松岡錬治という盛岡藩士が行った。松岡は元々、尾去沢に在勤していたのだが、藩財政を救うには銭の密造しか無いと考え、最初に鉄銭の鋳造を願い出た。これは文久年間だったから、大迫などの公許(または請負)銭座はまだ開かれていない。盛岡藩は、幕府へ開座願いを出す一方で、陰では銭の密鋳を行っていたことになる。

 慶応期に許可されるのは、寛永銭の裏に「盛」字を配置した寛永当四銭なのだが、母銭はまだ無いから、一般の銅銭を母銭に改造したものを使った。

 浄法寺通は福岡通や野田通と同じく藩の北方にあるから、松岡は天保の飢饉の窮状をよく分かっていた。

 「銭が無ければ作ればいいさ」の伏線はここにある。

 どういう人物なのかは今は知る由もないが、まあ、佐渡よりだいぶ年が上だろう。

 この松岡と楢山佐渡の関わりを中心に、もう一人、別動部隊のような「山師」がいると、物語が成り立つ。