日刊早坂ノボル新聞

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◎扉を叩く音(続)

◎扉を叩く音(続)

 「毎年、秋から冬にかけて、深夜、玄関の扉を叩く音が聞こえる」話の続きです。

 

 12月2日 午前2時05分の記録。

 2階の自室で原稿を書いていると、玄関のチャイムが一度だけ鳴った。

 「ピンポーン」

 玄関は私の部屋の真下だから、聞き間違えることは無い。

 「あれま。随分久し振りだ」

 しばらく前に、「この後は幽界の住人の仲間となり、手助けをする」と宣言して以来、ほとんど聞くことが無かったのに。

 いつもの年では11月に始まり3月に終わる。少し遅くなったのだが、やはり今年も例年通りに起きるということだ。

 ただし、最近では音の波長域が何となく分るようになった。

 玄関で音が聞こえる際には、扉を手の横腹で「トントン」と叩くケースと、チャイムを鳴らすケースがある。前者は人の可聴域の音で(波長)、後者はその外で鳴っている。要するに「チャイム」の方は波長が長すぎるか短すぎるために、大半の人の耳には届かない。

 すぐに階下に下りたが、息子がまだ起きていたから、「音が聞こえたか?」と訊ねると、「聞こえない」と答えた。やはりいつもの通りで、ノック音は息子にも聞こえるが、チャイムは聞こえない模様。

 

 ところで、いわゆる「第六感」は、「いくらか可視聴域が広い」ことと「想像力が豊か」なことで成り立っている。

 霊感師はとかく「因果を語る」が、有名な霊感師、霊能者を複数集め、同じものを見て貰い、何が見えるかを問うと、皆が別々の話をする。

 これで「亡くなる前にこうだったから」云々などあてにならないことが分る。

 もし霊「能力」というものが存在するなら、高い能力を持つ者であれば、同じものを見る筈だ。しかし、そうではない。主観に左右されるということであれば、何ら客観性を持たず、すなわち「能力」ではない。

 話は簡単で、いずれも「単に主観的印象を語っているに過ぎない」ということだ。

 もっと簡単に言うと、「霊能力など存在せず、ただ単に想像や妄想を語っているだけ」というのが実態だろう。

 これは、現実に符合する事実があるかどうかとは関係ない。人の一生で起きることには、ある程度、想像できるから、「たまたま当たる」こともあり得る。

 「当たった」「外れた」は、また別の話だ。

 「霊性」と近接領域である「念」のジャンルは、重なっている面もあるが、成り立ち自体は別のものになる。この「念」の力は修練によって高められる。

 

 具体的な例は、例えばこんなものだ。

 「ある人」の周囲で次々に人が亡くなったので、その人は思い余って有名な霊感師の許を尋ねた。すると、その霊感師はこう言った。

 「あなたの※代前の大叔父が悪いことばかりしたので、かなり恨まれていた。その恨みが子に代々伝わって、悪縁となっている。その証拠に、お皿に水を入れ、神棚に置いておくと良い。そのお皿は必ず割れる」

 「ある人」はその通りにお皿に水を入れて神棚に供えた。すると、数日後にそのお皿が割れていた。「ある人」はそのことでその霊感師を信じ、高額の祈祷料を払い、お祓いをしてもらった、という話だ。

 ところが、物に力を加えたり(念動力)、失せ物を探したり(透視力)するようなことは、「念」のジャンルで起きるものだ。要するに思考力の先にある。

 血の繋がりは、霊の繋がりとはあまり関係が無いから、「子孫を辿って、念を働かせる」ことなど、ほとんど起きない。

 死ぬと思考能力がうまく働かなくなるなら尚更だ。

 私が「そういうことは、滅多に無いのですよ」と伝えると、「ある人」は「では何故、お皿が割れたのか」と返して来た。

 答を見つけるのは簡単だった。

 「そのお皿を割ったのは、亡くなった大叔父さんに恨みを持つ者ではなく、その霊感師自身だろうと思います」

 何年もの間、「念を込める」修練をしていると、そういうことも出来るようになるらしい。普通の人でも、数ヶ月間、山に篭り、透視力を高める訓練をすると、「紙カップの中のサイコロの目を当てられる」ようになるようだ。

 恐らく、その霊感師は、修行により念力を使えるところまで来ている。

 そして、その力を示すために、そんなことを言って、さらにやって見せたのだ。

 もし「親の因果が子に祟る」ようなことが起きるのなら、この世に警察や裁判所は要らなくなる。恨みを残して死んだ者が相手やその子孫に祟ればこと足りるからだ。

 だが、そんなことは滅多に起きない。

 「幽霊(死後の残存自我)」と「生霊」がまったく別の存在なのは、後者が「生きている者の念」によって生じるものだということだ。このため、死者を慰めるやり方で幾らご供養を施しても、生霊は全然鎮まらない。「生霊」は念によって生じたもので、自我の形成過程から生まれたものではないから、当たり前だ。擬似自我というべき存在だから、ひとの心のごく一部しか受け継いでいない。

 その一方で、あくまで生きた者の「念」で出来ているから、その源である本人が死ぬと、「生霊」は消えてしまう。要するに「念」は「力」であって、存在そのものではない。生霊を止める最も簡単な方法は、その生霊の発生源を探し、当人を殺してしまうことになる。

 

 ただし、ひとつ付け加えるとすれば、死んでもそれで終わりになるわけではないから、あこぎな振る舞いをした者には、その報いが起きる。地獄は「放り込まれる場所」ではなく、自身が創り出すものだ。また、同じ匂いを嗅ぎ取って同類がどんどん集まる。このため、悪心を持つ者は悪心に囚われた状態のまま、長く過ごすことになる。

 幽霊は物理的な働き掛けをしないことがほとんどで、影響を及ぼすのは専ら「心」の領域だ。もし恨みを残して死に、死後もその恨みを抱えたままなら、誰彼構わず、その恨みを撒き散らす。相手を選ぶのは頭(思考)だが、死ぬとその頭を失い、合理的な判断が出来なくなる。

 

 脱線したが、周囲に異変が置き、そこに不自然なものを感じ取ったら、あれこれ疑ったり悩んだりする前に、サクサクとご供養をすればよい。

 神職、僧侶、祈祷師、霊感師を頼む必要はなく、「心を込めて祈り」、「声に出して頼む」ことだ。

 多くの人は散々こじらせるだけこじらせてから、自分で処理しようとせず「業者」に持ち込む。

 因果を疑うなら、早々に謝ったり、謙虚にお願いしたりすれば、多くは何事も無く異変が消失する。

 

 さて、十年以上前から記録を残してきたわけだが、「玄関で音が聞こえる」理由が分かったのは最近のことだ。

 おそらく、私が心停止を経験していることと無縁ではないのだろうが、幽霊の側から眺めると、多く私のことが「見える」ようだ。

 検知できるから、傍に寄り、「自分を見てくれ」「助けてくれ」と言う。

 ノックやチャイムはすなわちそういう意味だと思う。

 もちろん、こういうのも共有不可能なものだから、「想像や妄想」の話だ。

 第六感は「想像や妄想」から成り立っており、それには私自身のそれも含まれる。

 眼で見て、耳で聞き、想像しているのだから、見間違いや聞き間違いは普通に起きる。

 

 繰り返しになるが、霊能力など存在しない。想像を語ったり、多少の念力を使ったりしているだけだ。「霊」と「念」は、「実体(存在)」と「力」という性質の違いがある。