日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎お不動さまに参詣(467)

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12月18日撮影

◎お不動さまに参詣(467)

 少しでも異変を感じた時には、迅速に対応する方が良いので、この日はお不動さまに参詣することにした。

 幸い、最寄駅の近くにもお不動さまがある。

 お寺の境内では、「私が引き連れている未だ浮かばれぬ魂が、無事に成仏できますように」と祈願した。お寺で願う内容ではないような気がするが、ここは窮余の策だ。

 

 それから、いつもの神社に向かった。これで467日(回)目だ。

 自分自身の状態を確かめたいからだが、今は日光が不足しており、写真を撮影しても何ひとつ分からない。

 そこで、ひとまず「奥の手」を用意してあった。

 日光の量が不足しているから、ガラスに私の姿は映らない。それなら、ガラスの前に私自身が立ち、それを直接写せば、光の量は半分で済む(たぶん)。

 三脚をセットし、タイマーを使えば、撮影は可能。そんなことは前々から分っている。

 「しかし、もしかして、言い逃れの出来ないヤツが写るかも知れない」

 そう思っていたから、これまでそれを避けて来たのだった。

 ガラス映像なら、まだ「気のせい」だという言い訳が出来るわけだが、まともに魑魅魍魎や悪霊が写り、そいつが私をがんじがらめに掴まえていたなら、一層、気分が滅入ることになる。

 「だが、今年の冬は相棒のトラもいない。俺を救ってくれるのは、俺自身の直感しかないからな」

 そう考えて、車に三脚を載せて来たのだった。

 

 しかし、器具を抱えて鳥居を潜ると、少し考えが変わった。

「人間は知らずにいた方が幸せなことがある。自分自身の寿命や、ダンナや奥さんのスマホの通信文なんかだな」

 それを知ったところで、嬉しいことなどありはしない。

 ダンナ(または奥さん)の悪口が書いてあったり、別の女(男)と楽しくやり取りしていたりする。

 そこで三脚を使った自撮りは、「いよいよという時」まで取って置くことにした。

 

 正午過ぎに鳥居を潜ったので、いつもよりは明るいが、しかし神殿の前は日陰だった。

 さしたるものは写らないわけだが、しかし、それで幾分、ほっとするところもある。

 「まずは一日一日を確実に生きることからだ」

 あと数本、これまで日陰にいた者に何がしかの光を当てる必要があるわけだが、たぶんそれを考えるのは私しかいないから、まだ死ぬわけには行かない。

 もはや「自分ひとり」「家族など自分に近しい者」のためだけに生きているわけではないのだと思う。