日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎一年後の検証

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撮影日:平成31年1月21日

◎一年後の検証

 これはちょうど今から一年前の画像だ。

 この後で確かめたが、やはり境内には私の他に人(ひと)気は無かった。

 周囲に誰もいない状況で連写すると、数枚目に人影が写った。

 右側に二人の人影が映っているのだが、実際にはそこに人はいない。

 

 前後二人が同じジャケットを着ているのだが、手の位置が違うのでガラスの継ぎ目に出来るような二重写りではない。

 ま、後ろのひと(たぶん男性)には「頭がない」ので、「これはあり得ない」と分かる。

 頭のように見えるのは、総てが背後の木々の陰影だった。

 

 この後、やはり頭の無い「着物姿の女」が現れ、そいつに散々悩まされた。

 そのせいもあり、自分は「三月まで到底もたない」と思っていた。

 実際、体調が悪く、まともに百メートルも歩けぬほどだった。

 

 今年はだいぶ状況が良くなっている。

 あれこれ撮影しても、ほとんどが「気のせい」「想像や妄想」で話がつく範囲に留まることでそれが分かる。

 恐れ(や畏れ)が先に立つと、何でもないものまで異常に見える。

 死の恐怖を抱えた者は、何気ない景色が「いつもと違って見える」のは当たり前に起こりうる。しかし、どんなに異常に見えても、「これも想像や妄想で、自分自身が作り出した像だ」という自覚があれば、平常心を保つことが出来る。

 ただし、「あの世との境目に立つ者」には、現実に「どうやっても合理的な説明のつかない」事象が混じるから、どれが「想像や妄想」で、どれが「説明のつかない」現象なのか、判別がややこしい。

 ここで繰り返すが、「この世ならぬ者」の総てが「想像や妄想」で出来ているわけではなく、「説明のつかない現象」、すなわち、そこに実際にそれがいると見なさねばならないケースもいくらか存在している。

 死期が近づくと、現実に「この世ならぬ者」が近づいて来る。

 写真に何とも言えない「何か」が写るようになるのだ。

 それも、多くの場合、画像の片隅に、ごくさりげなく写り込んでいるから、見逃しがちだ。