◎「密鋳当百改造母銭」 謎解きのゲーム その2
(2)関連品を探す
発見場所付近、すなわち旧南部領(盛岡、八戸)で見られる密鋳銭の仕様から、類品を探してゆく。
当品の発見地は岩手県北部であるから、当地の密鋳銭を中心に見て行く。
貨幣は流通に伴い、各地の品が混じるわけだが、幸いなことに、幕末頃には中央との交易があまり盛んでない山間部で見つかったものだ。よって域外から入っては来るが、外にはそれほど出て行かない。
浄法寺町内にて、この品と最もよく似た銭容の改造母銭が既に見つかっている。
本座の長郭や広郭の穿内に刀を入れ、輪測を研磨して母銭に仕立てた品で、「称浄法寺銭」の本座写しの母銭として使用されたものだ。
「称浄法寺銭」自体、幕末明治初年に同じ町内にあった「山内座」との関係がよく分かっていないため、まずは盛岡藩の密鋳銭全般との比較を試みる。
まず、領内当百銭を仕様の違いから下記のように分ける。
ロ)「本銭A」
詳細説明は省略するが、盛岡藩の鋳銭計画による密造当百銭のうち、初期のものとされているのは、「銭径が小さく、薄手で見すぼらしい」ものだとされている。
鋳銭場所は、栗林と浄法寺山内で、主力は山内の方だ。製造枚数も山内が30万枚から40万枚で、栗林はその十分の一以下になる。
浄法寺山内が多く、栗林銭が少ないのは、銅材を尾去沢から運んだためで、要するに「距離の遠近」ということだろう。銭の密造はご法度だから、なるべく人目につかないように計らう。さすがに栗林は遠すぎるということだ。
この辺は新渡戸仙岳『岩手に於ける鋳銭』や『山内に於ける鋳銭』(略称)を詳細に読めば分かるのだが、これまで収集家できちんと読んだ者は数人だ。取集界ではレビューや「誰か」が書いた要約や「銭評」を斜め読みにして、都合の良い話だけを拾って来た。
「誰か」の論評でなく原典を読めば、ほとんどの問題が解決する。
盛岡藩が作成した当百銭の鋳造技法にはさほどの違いはなく、どれが栗林で山内かという判別が出来るのはごくわずかだ。
確実なのは「盛岡銅山銭用の六出星極印が打たれた当百銭」だけで、他の銭容の相違は想像に過ぎない。それでも、盛岡銅山銭は当初、「薄肉小様」で、これがあまりに見すぼらしかったので、「作り直した」というのは、ある程度存在状況に合致している。
(なお「六出星極印」とは、戦後の収集家が「八手様」と名付け直した異極印だが、紛らわしいので本来の「六出星」に統一する。)
「薄肉」「小様」に加え、この手の品は「黒っぽい」「極印が小さい」という特徴がある。
今では初期鋳銭とされる盛岡銅山銭小様のほとんどが消息不明なので、比較検討することは出来ないのだが、「そういうものがある」と頭に入れて置くべきだろう。
掲示の品の①「大字」は別座のものである可能性があるのだが、外見の印象が近似しているので、ここに掲示した。
中字もはっきりと断定は出来ないが、やはり「薄肉小様」で桐極印が小さい。
これらは貧相な銭容だが、実は重要な資料になっている。
さて、ここでは製造工法(「作り方」)を観察することが目的なので、「どのように作ったか」が着目点になる。よって「どこで作ったか」にこだわる必要は無い。
鑢目や極印の特徴により、藩が企画した「仕様」の中軸を押さえる必要がある。
ハ)「本銭B」
大量鋳銭段階の中核となる銭で、地金が黄色いものと赤いものとがある。
栗林、浄法寺山内の双方で赤黄両方があるようで、地金だけでは判別出来ない。
輪測桐極印も「本銭A」のそれとは違い、少し大きく、形状が丸みを帯びている。
ちなみに、盛岡藩の当百銭の銭種は、「大字」「中字」「小字」の三種あるが、このうち「大字」は山内座をベースに作られたようで、母銭の出所は概ね浄法寺地方である。
とりわけ戦後の大辞母銭の発見例は浄法寺町内に限られる。
大型の大字通用銭には、先の尖った桐極印(星型)があり、これはこの座固有のものである。
輪測の鑢は、粗砥式なのか、金属式なのか判別がつかないが、かなり粗いのが特徴になっている。 (続く)