◎扉を叩く音(続)
「毎年、秋から冬にかけて、深夜、玄関の扉を叩く音が聞こえる」話の続きです。
2月25日午前0時30分の記録。すなわちつい先ほど。
PCに向かっていると、例によって、すぐ真下の玄関の扉のドアノブが「ガチャガチャ」と音を立てた。仕事をしていたから、空耳でも聞き間違いでもない。
長女が遅くに帰って来ることがあるので、「帰ったのか」と思ったりもするのだが、しかし、その後、「キーッ」とドアが開閉する音がしたきり、その後は何事もない。
昨年は扉が音を立てることのないまま、家の中で人影を目にした。
「もはや出入り自由なのか」と思ったりもしたが、なるほど、今は従前とは違う者が寄り付いて来ているようだ。
こういうのは堂々と正面から入ろうとする。
普通なら、「招き入れぬ限り、入っては来られない」のだが、どうやら当方はあちらの者から見える存在らしく、勝手にドアを開き、真っ直ぐに当方に向かって進んで来る。
最近はあまり「宜しくないヤツ」が寄り付いているので、よほど警戒が必要だと思う。
家人も寄られやすく、かつそれに気付かぬ性格なので、整えるのが面倒だ。
つい先ほどもヒステリーを起こしていたが、おそらく扉の音と無縁ではないと思う。
だが、今は当方や当家にだけ起きているわけではない。
あの世がものすごく騒がしくなっており、幽霊たちがぞろぞろと可視領域に這い出して来ている。そういう相手と心が同調してしまうと、「怒り」を抑えられなくなったり、「このまま生きていても仕方がない」という思いに囚われてしまうようになる。
そうでなくとも、今は多くの人の命に関わる事態が起きているから、あらゆる意味で、誰もが警戒する必要がある。
誰のいないところで「声」が響くことがあるのだが、これも再び始まっている。
こちらは昼のことが多く、近所の人の話し声にも似ているが、内容は恨み言だ。
昼日中に道端で「あの時こうすればよかった」などと、人に聞こえるように話す者がいるかどうか。
3月には知人宅のご供養をすることにした。
何かしら善行を施し、死霊を遠ざける努力をする必要があるからだ。
知人は言葉に出さないが、おそらく当方に写真を撮影して貰い、そこに「穏やかな表情の故人」を発見したいのだろう。
何かしら負い目があるから、あえて「ご供養」を依頼するわけだから、当然だろう。
しかし、亡くなってすぐならともかく、何年も経ってから、親族の姿が現れるのは、あまり良いことではない。
執着心を捨て、成仏(当方は「魂の寛解」と呼ぶ)に向かうと、生前の自我・自意識は次第に消えて行く。
それが残っているということは、すなわちその故人が悪霊化への道を辿っているということだ。
亡くなった人が戻って来ることを願うのではなく、「穏やかに苦しみから解放される」ことを願う方がよい。
「あの世にいるお祖父さんが見守ってくれる」ことはけして無い。もしそんなことがあるとすると、そのお祖父さんは悪霊になっている。
穏やかさを得た魂は自我を解き放つから、生前の姿を留めない。人生の総ての記憶や感情を分解し、再編成して、再び生まれ変わる。
追記)やはり「心臓を鷲掴みにされる」事態が起きる。
従前とは性質の異なる危機が間近にあるようだ。