日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎自覚を持つ(484)

f:id:seiichiconan:20200307042918j:plain
f:id:seiichiconan:20200307042846j:plain
f:id:seiichiconan:20200307042829j:plain
f:id:seiichiconan:20200307042817j:plain
f:id:seiichiconan:20200307042804j:plain
f:id:seiichiconan:20200307042745j:plain
3月6日撮影

◎自覚を持つ(484)

 この半年くらいの期間で、最も記憶に新しいのは1月20日の画像だ。

 神殿前で撮影し、私の前には人はいなかったのだが、後ろに参拝を終えて去る人がいた。

 それが右側の男性のシルエットだ。

 ところが、左側に女性の姿がある。正確には振り向く中途の女性と、門柱の影にほんの少しだけ覗く女性の二人だ。

 同じ門の下付近にいるのに、人間のサイズがまったく違う。

 ま、当日の検証で答えが出ており、左側の人影は「存在しなかった」もの、すなわち幽霊だった。振り向いている女性は、その位置には足場がないし、そもそもサイズが大きすぎる。

 

 ちょっと嫌なのは、シルエットが極めて鮮明なことだ。

 これだけ堂々と出て来られるとなると、たぶん、そのままの姿でひとが直接目視出来る時もあると思う。要するに、自分が望む時に、この世の人がそれと分かるように出られるということだ。すなわち幽霊の中でも「大関」級の強さを持っていることになる。

 こういうのは、いざ敵に回ったら少しやっかいだが、今は挨拶程度のよう。

当方に「見せる」ために意図的に姿を現したのだと思う。

 「こりゃ、少し対策を考えて置かないと」

 そこで、この日も神社に参拝することにした。

 

 いつも書く通り、この神社は優れた霊場だ。ほぼ毎回のように、何らかの示唆を与えてくれるし、あちら側の世界を垣間見させてくれる。

 「たまに」ではなく、「毎回」だから、事実を十分に確認出来る。

 

 そんなことを考えながら、階段を上がり、神殿の上がり端で女性二人が参拝し終わるのを待った。二人が去ったので、撮影しようとすると、次の参拝客が前に立つ。

 仕方なくその人の背後から遠景で撮影した。

 さらに少し位置を替え、もう一度撮影。この時には前に人はいない。

 駐車場で開いてみると、最初の画像では、私の直後に人影が見える。

 門柱のすぐ後ろに女性と女児のような人影が写っていた。

 本来、この位置に写るのは、かなり後ろにある石垣と石づくりのモニュメントの筈なのだが。

 拡大すると、やはり母親と女児に見える。

 他にも気にかかるものはあるが、そちらははっきりしない。

 

 最も分かりやすいのは、女児の方。これは「人影だ」とすんなり分かる。

 母娘の姿はここで頻繁に目にするわけだが、いつもとは少し印象が変わっている。

 幾度かご供養をして来たが、それでも繰り返し姿を現すところを見ると、いわゆる「成仏出来ていない」状態になる。

 雰囲気が変わったのは、少しずつ悪霊化しているからではないか。

 今は母親が「従」で、女児の方が「主」だから、過去に見た母娘の姿を偽装しているのかもしれん。従前とは逆になっている。

 悪霊だけに、神域、すなわち門の内側には入って来ない、ということもあり得る。

 ま、いずれにせよ、門のすぐ外側にはこういう錯覚を生じさせるような物はない。

 

 2枚目の画像で分かる通り、後ろに映るのは石垣とモニュメントだ。

 2枚目にも女性の黒い影が写っているのだが、画像のサイズを縮小すると、ほとんど見えなくなった。遠く背後の山の木々にシルエットが侵食されてしまったらしい。

 何となく分かる人には、首を傾げている表情まで見えると思うが、ほとんどの人は認識出来ない画像だと思う。すなわち「気のせい」の領域だ。

 ここで重要なことは、少しだけアングルが変わっているが、1枚目と2枚目は「ほぼ同じ位置を写している」ということだ。見えるものがまるで違う。

 

 死後に起きることを、なるべく誰の目にも分かるように見せることは、ひとの人生観や世界観を調整するのに役立つと思う。

 「どう生きるか」と共に「どう死ぬか」、「死後どのように対処すればよいか」を考え、生きているうちに心構えを得て置かないと、死んだ後に狼狽え、あてもなく彷徨ってしまう。

 宗教や信仰は、目や耳の不自由な人が使う補正器具と同じ意味を持つものだ。

元の機能に問題がないのであれば、「本来、必要のないもの」になる。

 自分自身の目で確かめ、声を聴けばよろしい。

 今後は、「どう受け止められるか」や「他人にどのように思われるか」を気にせず、見たもの、感じ取ったものを、極力、忠実に伝えて行こうと思う。

 もちろん、その中には間違いもある。人には「あの世」を知覚する特別な能力などはなく、眼で見て、耳で聞く。違いは「波長域が少し違う」ということだけだ。

 見間違いや聞き間違いは、あって当たり前だ。第六感は基本的に想像や妄想に過ぎないのだから、実証、すなわち誰の目にも分かるかたちで捉えることが必要になる。

 

 帰路には、あれこれ買い物をした。

 こういう時勢だし、不安感から何事も手控えてしまいがちだが、お金はソコソコ使わないと、世の中の経済が回らなくなってしまう。半年も経てば、「良くなる」か「壊滅的な打撃を受ける」かの結果は出ている。

 お互いに融通し合うことが必要で、「お金を皆に回す」ことで、巡りがよくなる。

 それに、もし世界恐慌のような状態になったら、お金の価値など無くなってしまい、ハイパーインフレの状態になってしまう。要するに、貯め込んでも意味はなく、ソコソコは使えということだ。