日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎さすがに人が少ない(496)

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四月十六日撮影

◎さすがに人が少ない(496)

 所用で外出したが、その途中でいつもの神社の前を通る。

 少し思案したが、「他の人とは五メートル以上離れていられるようなら」と駐車場に入った。もし参拝客がそれなりにいたら、引き返して帰ることになる。

 平日の郊外とはいえ、やはり原則には従うべきだ。

 

 だが、今は「背後にゾロゾロ」の状態だ。

 ひとりずつご供養しても良いが、時間が掛かり過ぎる。

 お寺か神社に引き取ってもらう方が早く済む。

 原稿を書く時間が欲しいし、それ以上に財布が忙しいからあくせく働く必要がある。

 

 数枚ほど写真を撮影したが、この時期、画像にはほとんど出ないから、極めて不鮮明だ。

 私本人以外の人には何も見えないと思う。

 それでも、私自身はここで何百回も撮影しているので、ほんの些細な違いも見て取れる。それ以前に、幾度も「声」を聴いているから、画像に頼らずともそれと分かる。

 

 「何となく、誰かに見られている」

 「背後に気配を感じる」

 こういう時には、ほぼ100%、実際にそういうことが起きている。

 ここまでは、よく言われることだ。

 重要なのは、この先だ。

 

 「しかし、別段何か悪いことが起きるわけではない」

 この世の者と幽霊はプラスマイナスの対極にいるから、原則として相互に関わることが無い。もしそれが発生するなら、それはいずれかが「相手の側に近づいた時」のことだ。

 要するに、「怒り」が自我の拠り所になっている幽霊は、同じような感情を抱えている人間に引き寄せられる。

 だが、これだけでは、何も起きない。

 喜怒哀楽の感情は、日常生活の中で、常にひと(生きた人間)の心の中で生起しており、ひとは「怒り」の激情にかられることもあれば、それを鎮めることも出来る。

 たまに、ひとが幽霊の持つ「怒り」に同調すると、波のように感情のうねりが増す。

 元の心境よりもはるかに大きな激情に駆られてしまう。

 これが、次の決まりに繋がる。

 「悪霊は、ひとが招き入れぬ限り、入り込んでは来られない」

 現実の家の玄関の話だけではなく、心も同じ。

 

 ところで、幽霊に首が無かったり、首だけ別のところに離れていたりすることがある。

 これは、自意識の中で、首を境に「分断されている」という意味になる。

 どういう事態かは、少し考えれば分かる。

 首から下の感覚がないのは、そこを強く締め付けられた、ということ。

 自死すると、死の直前の状態のまま、長い時間を過ごす。「死のう」という意識が続く限り、そのままでいる。

 しかし、そのままでは苦しいから、次第に「これから逃れたい」と思うようになる。

 誰彼なく「助けて」と叫ぶところまで来ると、動き回るようになる。

 あとはきっかけ。

 自殺者に限らず、自我解放のきっかけを上手く捉えられるかどうかは生前の積み重ね次第のようだ。

 

 「どう生きるか」と「どう死ぬか」は表裏一体だが、さらにその次がある。

 それは、「どのように死後を送りたいか」ということ。

 「死ねば終わり」などという「迷信」を信じたら、とんでもないことが待っている。

 「この世」の物差しで、「あの世」をはかることは出来ない。

 

 今日の画像で、「何かおかしい」と感じられる人は百人に一人もいないと思う。

 もしいれば、私の仲間だ。もちろん、「奇人」「変人」という意味になる。

 冗談はともかく、基本は「目視」ではなく、「声」の方だと思う。

 背後につきまとって「助けて」と呟くのは、自身が首を吊ったままの状態だから苦しくて堪らないということ。

 今は「もう苦しまなくともよい」と答えられるようになった。