◎松岡練治と楢山佐渡 (『花は咲く』(仮)の周縁)
幕末盛岡藩が行った「銭の密造」の件ついて、銅山役人の松岡錬治と藩家老楢山佐渡の話として書こうと思い、資料を調べている。
ある程度、物証を得て、裏付けを取ってから始めるが、見解は郷土史の研究者とは違うものになると思う。ま、紙に書かれているのは事実ではなく作文のことが多いので、最初から信用せず、文字ではなく物証を重視する。
藩が銭の密造に関わっていた、なんてことは、もちろん、公文書に記されている筈も無いわけだが、幕末に稼働している銅山は、事実上、尾去沢だけだし、そこから大量に銅を調達して、銅銭を作るのは、藩の関与なしには出来ない。
楢山佐渡の幕末の動きを見ると、必ずその中心にこの人がいる筈で、口碑が残っている上に、そもそも密造した当百銭自体が「楢山天保」と呼ばれていた。
実際に動いたのは、佐渡が「御銅山懸」に就いてからだろうが、父親もその役を務めていたし、尾去沢とは繋がっていた。
そこで登場するのが、松岡練治だ。松岡は銅山役人として尾去沢に居た。
文政・天保の飢饉以後、藩の財政が窮地に陥ったので、松岡は「文久年間から鋳銭に着手した」らしい。この辺は新渡戸仙岳が幾らか記述しているが、おそらく最初は寛永銅銭で、次が当百銭と寛永鉄銭になる。
よく分からないのが、幕末明治初年の鋳銭の後、仕様の違う銅鉄銭が作られていることだ。古貨幣収集家はこれを「称浄法寺銭」と呼び、実際に浄法寺から出ている。しかし、技術的に幕末の鋳銭方法とは異なるところがある。
物語的には、ここが創作のしどころだ。
まず1)松岡練治と楢山佐渡の密造があり、明治の「ご一新」の前後の出来事が生じる。
次に2)松岡の子が再び、銭の密造を企画する、と言う流れはどうか。
明治には、三井が政府役人と結託して尾去沢銅山を盗むのだが、これと関連させる、とか色々手はありそう。
明治中期の展開はともかく、まずは慶応三年の密造のてん末を固めることからだろう。
岩手県の人は、まさか楢山佐渡が「銭の密造」に関与していたとは思ってはいない筈だ。
大体、高潔な人物として描かれるが、実際の人物像はかなり違う。
ま、これは当方が等身大のサイズに戻す。
こういう調べは一朝一夕にはできず、何年もかかるのだが、ものが見えるようになるまで、果たして生きていられるものなのかどうか。
いずれにせよ、「何時かは出来る」と思って前進する他はない。
ちなみに『花は咲く』は、言葉として手垢がついてしまった感があるので、別のにしようと思う。