日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎正体を捕まえた

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令和元年五月三十一日撮影

◎正体を捕まえた

 今は昨年の一年を振り返っている。

 とりわけ一昨年の十二月から三月までが顕著だったが、「もう幾らももたない」という確信があった。実際、数十メートルも歩けぬようになっていたし、括約筋も緩みがちだった。

 そこで「もうお終いなのだな」と身辺整理を進めた。

 しかし、四月の終わり頃から少しましになり、外に出られるようになった。

 例年、春の終わりから夏の間は、割と過ごしやすいこともある。

 秋にはまた危機が来て、便の潜血反応から下血まで一気に進んだ。この時点で総てを諦め、内視鏡検査にも行かなかった。

 それ以降は、さしたる治療など受けず、ご供養と祈祷をしていただけ。

 今ははるかに状態が良い。と言っても、もちろん、心臓と腎臓の内部障害者として、の範囲ではある。

 

 さて、これは昨年の五月の画像だ。

 ガラス映像なので不鮮明だが、本人は「さすがにこれでは頭が剥げ過ぎだろう」と思う。

 頭頂部が「ツルッパゲ」みたいなことは無いからだ(たぶん)。

 少し拡大してみると、なるほど、二つ煙玉が出ているようだ。

 直接撮影した画像と違い、ガラス映像の場合は、もっさりとしか写らないから見難いが、しかし、何百回と見ているので、詳細は分かる。

 そこで、さらに拡大してみると、後ろに「女」が立っていた。

 顔つきの醜い女だから、もはや悪霊化したヤツになる。その辺、あの世は正直で、自身の心の状態がそのまま姿かたちになる。

 生きている者なら、「外見がきれいでも心根が醜い」ということはよくあるのだが、あの世(幽界)には無い。姿が醜いのは、「悪意を持っている」からで、ある意味、この世より分かりよい。

 この女が私の頭を掴んでいたから、ここが白くぼやけていたのだ。

 

 長い間、気持ちが塞いでいたのは、こういうヤツが取り憑いていたからだと思う。

 昨年と今とで、決定的に違うのは、こういうのを見つけて除去できるようになったことだ。

 こういう時のやり方は簡単だ。

 「私はお前を見つけた。私の眼を通して、お前は自分の姿を見るとよい。それでどれほど自分が醜い姿をしているかを知れ。この姿がお前だ」

 たったこれだけ。祝詞もお経も不要だ。

 幽霊は「自他の区別がよく分からない」状態だ。生きている人に寄り添うのも、自分に近いもの(心情)があるから引き寄せられているだけで、「取り憑いてやろう」「こいつを呪ってやろう」などとは考えていない。そんな思考能力はないのだ。

 「怒り」や「恨み」のような心情に同調・同化しているだけ。

 それなら、「私とお前は別」と悟るだけで影響力が無くなる。

 

 一方、私の左手の前には、別の女性の姿がある。これは殆どの人には見えない。

 視線が家人にも似ているし、母にも似ている。

 「そう言えば、母と女房は似たところがある」と改めて実感した。

 なお、世間で良く言われる「守護霊」のような、生者を「守ってくれる」存在は無い。

 こういうことを口にするだけで、あの世のことを実際には何も知らないと分かる。要するに、ただの知識。

 

 もちろん、仲間のようなものはある。と言っても、手を出して守ってくれることは無く、ただ単に「見ているだけ」の仲間だ。「守る」わけでは無い。

しかし、「寄り添って励まし」てくれるのは確かだ。

これも「心に寄り添う」という意味では、悪霊と同じ理屈になる。

 

 この「女」(悪い方)は、割と分かり易い方だ。

 パッと見て、これが分からないようだと、第六感の分野では、だいぶ先が長いと思う。

 悪意がまる出しになっている。

 「助けて」という願いにはご供養を返すが、この手のには「闇に落ちろ」と言うだけ。

 

 昨年は次から次にこういうのが寄り付いていた。

 具合が悪くなるのも当たり前の話だった。