◎一年前の振り返り 「ポピー畑の通行霊」
画像は昨年の六月二日に、東秩父の天空のポピーを見物に行った時に撮影したものだ。
当時の体調は、三月よりはましになってきていたものの、まだ五十㍍歩くごとに立ち止まり、ひと息吐く必要があった。
車で移動する分には構わぬが、長くは歩けぬので、私は畑の入り口までで、家人を先に行かせた。
あの世系の異変も、この時期は少ないので、すっかり気を許していた。
人混みの中ならともかく、ここは山の中だ。(見物客は沢山来ていた。)
遠景で家人を撮影した画像の中に、妙にピンボケのものがあった。
自動ピント調整機能があるのにおかしいと思い、よく見ると、家人に重なるように、女の後ろ姿が写っている。髪は肩まで、ジーンズのジャケットの腰上くらいまでが写っている。
この女の姿が入ったのでピントがボケたのか、ピントが合わなかったので写らぬ筈の女が写ったのかは分からない。
改めて確認すると、やはり「通行霊だった」、ということ。
どんな場所にもこの手のはいる。ただひとの目には見えぬだけで、たまたまカメラの補足範囲の波長に入った時に可視化する。
これは想像や妄想の範囲になるのだが、この女は「自分の子を探している」ように思う。
もちろん、まったく影響はない。
この場所は「スポット」ではないし、私や家人、その場にいた見物客のいずれにも影響はない。
影響が無いのだから、「存在しない」のと同じ。
その範囲では、「霊など存在しない」と見なすのは、概ね間違いではない。
そもそも、どこにでも幽霊はいるのだから、「心霊スポット」みたいな考え方はナンセンスだ。こういうのをあげつらうのは、幽界のことを「何も知らない」と証明するようなものだ。
ただし、いつも書く通り、「例外は必ずある」ことも忘れては行けない。
「通行霊」のことは無視してよいが、自分に関わろうとする者については、多少、注意する必要がある。常に死者に敬意を払い、かつ不必要に恐れぬことだ。
追記)こういう画像には、画像のどこかにこちらを見る「視線」があるのだが、やはりこの画像にもあるようだ。見る側が「見えるかどうか」を確かめているか、あるいは「きっと自分を見るだろう」「見てくれ」と思って観察しているのだろう。