日刊早坂ノボル新聞

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◎自殺者は「黒いコールタールの海」にいる ─一年前の振り返り─

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令和元年六月二十三日撮影

◎自殺者は「黒いコールタールの海」にいる

 この世ならぬ異変を感じ取る時の最初の兆候は「声」になる。

 多くは「カヤカヤ」と囁くような呟き声が響くのだが、直接的に「助けて」と声を掛けられたりすることもある、

 次は「ざわざわ感」。どうにも居心地が悪くなる。

 ここまでで、もはや確実に「幽霊は傍にいる」のだが、幽界の住人は目視可能な波長域にはいないので、直接見ることは滅多にない。よほど条件が合致しない限り、肉眼では見えないのだが、カメラは波長域が幾らか広いので、画像に残ることがある。 

 

 予兆にはこの三つの要素があるわけだが、その後は時間の経過と共に、まずは「声」が消える。撮影直後であれば、画像を目にする度に時々「声」が響くのだが、それが次第に聞こえなくなる。

 実はこの「声」が重要なファクターになっているようで、これが無くなってみると、画像の見え方も変わって来る。「画像自体が変わる」という要素もあるが、受け止め方が変化し、鈍くなるのだ。

 一年くらい後に画像を開いてみると、「たまたまそう見えた」「気のせい」のように見えることも多い。おそらく、多くの人の目にはいつもそう映っていることだろう。

 殆どの人は「声を掛けられる」ことが無いからだ。

 

 こういうことから、一年前に起きたことを同時進行的に振り返って見ることにした。

 「声」が消えていれば、「ただの画像」として冷静に見ることが出来る。

 そうなれば、より「客観性」に近づくことが出来る。

 「想像や妄想」で片付けられない部分を探り当てられるかもしれぬのだ。

 

 とはいえ、五月六月は、一年の中で、最も異変が起き難い季節だ。実際、はっきりした異変を確認出来るケースはあまり多くない。

 これはレアケースのひとつになる。

 

 N湖は郷里の岩洞湖に似ているところがあるためか、時々訪れる「お気に入り」の場所だ。多くはお弁当を持参で訪れ、そこでゆっくりと食べる。

 この日も同じように、この地に向かった。

 平日はあまり人が来ない場所だから、気兼ねなく過ごせる。いつも通り、湖岸でお弁当を食べ、レストハウスの前で記念写真を撮影した。

 それまで幾度も訪れていたわけだが、一度も異変を感じ取ったことは無い。

 しかし、この時は違い、レストハウスの入り口の画像で、普段とは違う視線を感じた。

 

 これは、人混みの中ならどこででもあることだ。都心の駅構内や駅前の雑踏の中に入ると、必ず「何者か」が見ている。それが不快なので、私は電車には滅多に乗らない。

 

 しかし、ここは田舎の人造湖で、人混みとは違う。

 そこで、とりあえずその視線の主を探してみた。

 すると、まさしく「ごちゃまんと」人影が出ていた。

 最も分かりよいのは、①青いパーカの女だ。直前の画像にある通り、レストハウスの前のベンチには誰もいないのに、ガラスには女の影が映っている。当初は中にいる人かと思ったのだが、きちんと店内の陳列台が見えている。もしこの女が中にいるなら、身長が七十センチくらいしかないことになる。

 

 次が石垣の中に見えるひとの頭だ。

 黒い水の中からひとの頭が幾つか出ているように見える。とりわけ、前の二人は、私に向かって何事かを叫んでいる。

 石垣の石が「たまたま」そう見えたのではないかと、その後、幾度も同じ場所を撮影したが、こんな風に見えたのはこれきりだった。

 黒いコールタールのような水から頭を出し、「何か」を叫ぶ者たちだ。

 「何か」はすぐに分かる。こういう時に呼び掛けられるのは、「助けて」だ。

 死者が「助けて」と叫ぶ声は、もう幾度聞かせられたか分からぬほどだ。

 その後、状況が分かるまでに、二月くらい掛かった。

 黒いぶよぶよの肌を持つ死者たちは、すなわち「自殺した」ということだ。

 溺死した者もいれば、そうでない者もいるのだが、共通点は総て「自死による死」ということ。

 「黒いコールタールの海」は彼らの心境そのものなのだろう。死んでも、いまだ自己への呵責が終わらず、今も苦しみ続けている。

 いつも書くことだが、とりわけ若者は「自死・自殺」してはならない。放って置いても、ひとはいずれ死ぬのだから、自ら死を選ぶことは無い。死んでも問題は解決などせず、コールタールの海で浮きつ沈みつすることになる。そしてそれは際限なく続く。

 

 今回、一年ぶりに画像を開いてみて、何故この時に限り、「わあっと集まる」ように幽霊が現れたのかが分かった。画像の端に私自身が映っているのだが、胸元に煙玉が出ている。

 私は頻繁に煙玉を発するのだが、異変はそういう時に最も良く起きるようだ。

 要するに、コイツは幽界の住人にも「見える」ということだ。

 接点が生じたので、双方が相手の所在に気が付いた、ということになる。

 

 今になり分かって来たが、この地で自死した者ばかりというわけではなく、別の場所で亡くなった者もいるようだ。

 おそらく、この世の「場所」はさほど重要ではなく、今いる場所、すなわち「黒いコールタールの海」が問題ということだ。闇を抱えているという共通点があるから、同じ境遇の者同士が寄り集まって来る。

 ま、この地で亡くなった者だけが集まるポイントはもう少し奥にある。

 そこに行く度に、「かやかや」という話し声が聞こえるのだが、警察の舟艇が何らかの作業をしていたのでようやく気が付いた。

 

 この幽霊たちを鎮めるのには、その後、半年以上掛かった。

 頻繁に湖岸に出掛けては、お焼香をし、語り掛けたのだが、その度にひとつ減り、ふたつ減りで、今では異変がほとんど起きなくなった。

 放置すれば、また集まるから、いずれまたご供養を施す必要があるとは思う。

 なお、こういう場合、お経も祝詞も要らない。神職や僧職でない限り、付け焼刃の真言を唱えることは、むしろ逆効果になりかねない。

 一般人は自身が日頃使う言葉で、真摯に語り掛けるのが最も良い。

 

 既に異変が起き難くなっているから、この地を実名で書いても良いと思うし、見る人が見ればこれがどこかは分かる筈だが、一応はN湖とのみして置く。

 面白可笑しく情報が作り替えられ、世間に伝わっては、地元の人の迷惑になると考えるためだ。ほとんどの人にとっては、ごく普通の湖だから、「スポット」などではない。

 しかしま、これまで繰り返し書いて来た通り、「あの世を弄んではならない」として置く。

 「敬意を欠く振る舞い」や「恐怖心を煽る」行為は、あの世との向き合い方に関わる禁忌事項の最たるもので、その線を踏み越えると、ホラー映画や小説などよりはるかに怖ろしい事態が待っている。

 映画や小説では、主人公が祟りによって殺されれば、そこで話は終わる。しかし、実際の祟りは「死んでも続く」し、終わりがない。

 各々の分限を守る分には、あの世(幽界)は怖ろしいものでも何でもないのだが、ひと度線を踏み越えると、想像を絶する恐怖が待っている。

 何ひとつ見えぬコールタールの海で、何年何十年もの間、溺れ続けたいのであれば、不敬を働いても構わない。その場合、自殺者とは立場が違い、「抜け出られない」のではなく、「離して貰えない」という状況だから、苦痛もひとしおだ。