日刊早坂ノボル新聞

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◎「あの世」は人知では計り知れぬ (一年前の振り返り)

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令和元年七月二十七日撮影

◎「あの世」は人知では計り知れぬ (一年前の振り返り)

 一年前の同時期を振り返り、かつての状況を分析し直している。同時進行的には判断がつかなかったものも、時間が経つと冷静に見ることが出来るためだ。

 と言っても、五月頃から七月くらい、すなわち夏季の間は、あまりこのジャンルの異変が起きない。ゼロではないが、はっきりしないことが多いのだ。

 実際に昨年の記録をチェックすると、曖昧だったり、あるいは見間違いをしていたりする。

 六月のものは、その多くが「何とも言えない」ものばかり。

 「これは確実に説明のつかない現象だ」と判断できるのは、秋口になってからのものになる。

 

 画像は昨年七月末のものだ。

 境内にはチラホラと人がいたのだが、神殿の近くには私一人だった。

 夏場と言うこともあり、この時の私は、正直、油断していた。

 階段を上がったところで右側から撮影したのだが、中央に人影が写っている。

 遠景なので鮮明ではないが、大半の人がこれを人影と認識すると思う。

 女性で、手すりのようなものに両手をかけているから、おそらくベビーカーを押している。そのベビーカーの前に乗せているのは、赤ん坊ではなく、ちょっと気持ちの悪い頭のようだ。ここは画像が鮮明でなく幸いだった。

 ちなみに、この境内で撮る画像には、隅の方にベビーカーを押す人影がよく写る。実際にそこにいてもおかしくないのだが、いつも少し違和感がある。

 この女性は門の中央にいるので、階段をベビーカーを抱えて上がって来たことになる。でも、この階段の左サイドには、車椅子やベビーカーを押して上がれるスロープがある。

 

 二枚目も、この境内で時折見掛ける老夫婦だ。

 私が立っているところは、神殿に向かって右寄りの位置だから、すぐ隣は板塀になる。

 もしこの老夫婦が写るとすると、検証画像で示した通りの角度の先にある灯篭付近にいるしかない。

 ところがその灯篭とのサイズを比較すると、この老夫婦の身長はせいぜい一㍍程度になってしまう。

 自身のサイズを自由に変えられるのは、この世の者ではないと思う。

 ちなみに、よく起きるケースは「小さい」方ではなく、「大きい」方だ。二㍍数十㌢くらいの姿で写ることが時々ある。

 この老夫婦は参道を横切ろうとしているが、ここに道はない。前も後ろも草叢なのにどこに行こうとしているのか。

 

 その場で画像を確認すると、どうにも理不尽に見える。

 そこで念のため、赤外線カメラを取り出して、自身の姿を撮影した。

 これが最後のモノクロの画像だ。

 すると、ガラスの左側にうっすらと私の姿が写っているのだが、何やら後ろに誰か、または何かが立っている。

 帰宅してから、画像を確かめると、背後に居たのは、妖怪のような怖ろしい顔をした「何か」だった。しかも、そいつは巨大な左手で、私の体を鷲掴みにしていた。

 こういうのを目視してしまうと、さすがにゲンナリする。

 「これじゃあ、俺も長くは持つまい」

 現実に体調があまり良くなかったから、まさにそういう実感がある。

 

 ところが、「あの世(幽界)」は、生きている者が考えているような単純な世界ではないようだ。こういうのに捕まれたからと言って、直ちに取り殺されるわけでは無い。

 女の幽霊には、時々、抱き付かれるのだが、だからと言って、物理的な「何か」が起きるわけでは無い。その辺はホラー映画とは明確に違う。

 しかし、もちろん、心への影響は大きい。

 半裸の女の幽霊にしがみ付かれると、淫靡な考えを吹き込まれる。

 だが、そういう相手をきちんと意識し、「自分とは別の存在」と見なすと、影響力が小さくなるようだ。

 先方は、自身と同化合体することで、人の心を手中に収め、その人(心)に成り代わろうとしているのであって、危害を加えることを目的として近づいて来るわけでは無い。

 (正確には「成り代わる」も正しい表現ではないかもしれない。幽霊が寄り付くのは、自身に似たものを持つ心に対してであって、その人の心に引き寄せられたとも言える。「相手に成り代わる」ではなく、「自分自身だと見なす」の方が正確だ。)

 

 姿かたちが異様なことがあるのは、幽界では「心に描いた」通りの姿になるからだろう。

 生きている者であれば、心の中でどれほど悪心を抱いても、それは肉体の中に隠され、外に表れることはない。幽界では、肉体も知能も失っているから、心根がそのままかたちとなる。

 見るも無残なかたちをしている者もいるが、それでも割と単純化されているから、それほど恐ろしいものではない。

 蛇みたいな胴体を持つ女の悪霊もいるが、生きている者の心の中の方がはるかに醜く、悍ましいと思う。