日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎若者はノーガード(523)

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令和二年八月十三日撮影

◎若者はノーガード(523)

 十三日は通院日だった。

 エレベーターの宿題があったが、朝は何も起きない方が多いし、患者が沢山いる。

 「宿題」を果たすのは、「帰路の下り」にしようと考え、そのまま病棟に入った。

 ベッドに横になっていると、急にお腹が痛くなったので、トイレに向かったが、あいにく使用中だった。そこで急いで一階のトイレに向かった。

 結構、ぎりぎり(苦笑)。全身が徐々に弱っているわけだ。

 無事トイレを済ませ、ほっとして再び三階に向かうべく、エレベーターに入った。

 この時は、「宿題」のことなど、すっかり忘れていた。

 「閉」→反応なし。

 「閉」→反応なし。

 ありゃ。実際、この手のは「故意(「出ろ」「出るな」)が働かない時が出やすい」という傾向があるが、ちょうどこの時は「心が空」だったらしい。

 

 しかし、入り口の前には、階下(地下の検査室)に下りたい人が乗らずに待っている。

 「宿題」を果たすのは、「今」じゃないよな。

 「閉」「閉」「閉」「閉」→反応なし。

 エレベーター待ちの患者は、この不具合を知らぬから、私が「意図的に出発しない」と見て、むっとした顔をしている。

 「おいおい。早く動けよな」と口に出して言う。前の患者に「機械の調子のせい」と伝えるためだ。

 

 仕方ない。付き合ってやろう。

 「閉」を押す。「お前はアモンなの?」→反応なし。違うらしい。

 ちなみに、「アモン」は頻繁に私の夢に出て来る悪霊だ。コテコテの悪霊であり「悪魔」と言ってよいのだが、夢の中では割と仲が良い。

 昨年、写真に写ったあの「妖怪顔」の死霊が、「もしかしてアモンかも」と思っていたので訊いてみたのだが、返事がなかった。そりゃそうだ。夢は夢だもの。

 

 「閉」を押す。小声で「今年の冬にどれくらい死ぬことになるの?三千人?」。→反応なし。

 「閉」。「じゃあ、五千人?」→反応なし。

 「閉」。「一万人か?」→、唐突にドアが閉まり、出発。

 オイオイ。半ば以上は本気で訊いたわけじゃないのに。

 誰よりも、当の本人が自分のことを疑っているからだ。

 残り半分は、もし返事があるなら、「ドアが閉まります」の響き方で判断できると思っていた。押した回数と違うアナウンス回数なら「偶然」の可能性を減らすことが出来る。

 

 この時の「ドアが閉まります」は最後に一回だけで、しかも、ドアが閉まり始めてからだった。

 「う-ん。一万人で反応があったが、しかし、まだこれを返事と見なすわけにはいかんな」

 これでは「ただの機械の不調」という線を棄却出来ないからだ。

 例えば、「閉じる」一回で「死ぬのは何万人?」と訊いた時に、「ドアが閉まります」を五回言えば、「五万人と答えている」という解釈に近付く。

 

 もちろん、これがただの気のせいで、私の気の迷いや妄想だったったというのが、最も望ましい展開だ。

 自分自身がただの奇人変人なら、現実には嫌なことが起きないし、自身も普通に死ねて、死後の務めも無し。

 ま、エレベーターが動かなくなる不調の「中心にいる」のが私なのだが。今のところ、「不調」が人を選んで起きている模様だ。

 

 帰路には、カメラを構え、動画撮影をしようとしたが、「閉」一発で動き出した。

 やはり「構える」と無反応だ。これはこれまでと同じ。

 そこで、「神社に行き、同じことをしてみるか」と思い立った。

 神殿の前で祈願することはひとつだけだから、ひとまず「一万人ですか?」と訊ねてみる。その答えは、ガラスに映る自分自身の姿に表れるだろう。

 「妖怪顔」が見えれば、ほぼ100%だ。

 

 ところで、いつも病院の裏手にある駐車場に車を入れているが、この日そこを出ようとすると、大きな黒い車が外の道路から入って来るところだった。私の車が出ようとしているのを見ると、その車がすっと下がって道を譲った。

 「これはこれはご丁寧に」と頭を下げたが、すれ違いざまに見ると霊柩車だった。

 あの黒くて長いタイプの車だ。

 この日の午前中に誰かが亡くなったと見える。病院だから、こういうのはよくある。

 そういう車なら、極力、他との摩擦を避け、控えめに振舞うのも頷ける。

 

 神社に向かう途中でスーパーに寄った。

 レジに向かうと、一つだけ行列が短いところがある。

 「何でだろう」と思いつつ、そこに並ぶと、理由がすぐに分かった。

 お盆休みだが、首都圏では今年、帰省を自粛する人が増えている。しかし、休みなのでどこかに行きたい。それで近郊の「あまり有名でない景勝地」に人が殺到する。

 埼玉西部のキャンプ場や渓流の近くは、とんでもない渋滞が起きているそうだ。

 このスーパーから、川べりのキャンプ地まではまだ十キロ以上あるのだが、現地では食料等を買えない場合があるから、ここで買って行く。

 大学生くらいの男子は既に短パンだし、女子は「半ケツはみ乳」の格好だった。

 その十数人の集団が、一人もマスクをせずに、大声で騒いでいる。

 注意しても「自覚のない者」は腹を立て、余計に叫ぶだけだから、大人は近くに行かない。その関わりで感染したら目も当てられぬからだ。

 それで一列だけ人が少なかったということだ。

 

 「若者はやはりノーガードで、『持病のある者や中高年以外は重症化しない』という説を信じているわけだ。これは『持病有りや中高年が重症化しやすい』を、勝手に『若者は重症化しない』に読み替えたものだ。意味がかなり違うんだけどな」

 あの妖怪顔の悪霊の高笑いが聞こえるようだ。

 

 今日の「死者一万人」はただの世迷いごとだ。取るに足らないものだから、「不安を煽る」ところまでも行かない。単なる空想や妄想と変わりない。

 私自身もそうは思わない。「一万人」ではなく、もっとずっと多くなる可能性があると見ているからだ。

 その証拠に、まったくノーガードの者も市中には沢山いる。

 死者一万人なら、インフルエンザ(死者3、4千人)と変わりない。年寄りや持病のある者はいずれにせよ命に係わる。これも同じ。

 でも、もちろんの話だが、インフルエンザでは子どもや若者も死んでいる。とりわけ幼児だ。

 まだ流行の本番が始まってもいないのに、コロナがその点だけインフルエンザと「同じにならない」と誰が言い切れる。

 

 そこから神社に向かったが、参拝客が多く、「宿題」には不向きの状況だった。

 無難に参拝して帰ることにしたが、遠目から二枚だけ写真を撮った。

 どうやら、穏やかな夏の季節はもう終わりで、もはや「秋」が始まっているらしい。

 最近、他の人の目に見えない者を説明しても、「何時まで経っても伝わらない」ことに気付いたので、目視でそれと分かるもの以外の説明はなるべく加えないことにした。

 私自身は同じ場所を五百回以上訪れ、数千枚の写真を撮影しているから、ごく小さい違いでもすぐに分かるが、他の人はそうではないということ。

 

 かつては、自分自身の後ろにゾロゾロと幽霊が従っているさまを見て驚いたものだが、あれはごく普通の状態のようだ。

 大体は、人ひとりの周りには、「常に四五体の幽霊」が付きまとっている。概ね、その人の肩とか腕に掴まって、行動を共にしている。

 「だからどうだ」というものではなく、「それが普通の状態」らしい。

 私については、二十幾つが集まっていることがある。とりわけ、「もう死んでいる女性」が集まる。

 こういう存在は、おそらく同じ感情を共有し、少しずつ相互に影響を与え合っている。

 これが「当たり前の状態」であるなら、多少の者が見えても大騒ぎすることはなく、ただ「上手に乗りこなせばよい」だけだ。

そのためには、常に「自分本来の心はどれか」ということを注視する必要がある。

 

 ものを考えている時に、時々、「頭の中で反対の意見が響く」ことがある。

 そういう経験をしたことのある人はかなり多いと思うが、「そんなことやめとけば」みたいに忠告する声は、自分ではない「何者か」が語っている声かもしれない。

 

追記)きちんと解説すると、追加画像の状況だ。上にも書いたが、人の周りに幽霊が複数寄り付く状況は、実際には誰の身の上にも起きていることのようだ。

 これが特別なことではなく、「普通に起きること」であれば、驚くには値しない。

 特に何か悪いことが起きるわけではなく、感情を共有する程度だ。ただし、その喜怒哀楽の感情を増幅する効果があるから、刹那的な感情に流されていると、何時しか心が幽霊と同化してしまう。自分自身をよく見詰め直すことが必要だ。

 昨年の私の画像を添付するが、その後、特に変わったことが起きたわけではない。

 当時は体調的にしんどくて、常に死を意識して暮らしていたので、健康な人よりも多くの幽霊が寄って来たようだ。また、私の周りには、いつも煙玉が出ているので、それを目当てに集まるのだろう。

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