日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎うどんが嫌い(529)

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令和二年九月十四日撮影

◎うどんが嫌い(529)

 これは月曜のことになる。

 

 ようやく秋らしくなって来た。

 所用で外出した折に、何となく神社にも寄ることにした。

 前日も参拝しているのだが、今は亡き神社猫が恋しくなったのだ。

 別れた女性のことを思い出し、「思い出の地」を訪れてみたことが幾度かあるが、トラの場合はそれが何百回にも及ぶ。

 自分の人生で最も心を残している「女」は、この雌猫らしい。問題は、それが人間じゃなかったということだけ。

 

 参拝の途中で、ふと昔のことを思い出した。

 子どもの頃、母は長期にわたり入院しており、父は朝から晩まで働いていたから、ご飯を仕度をする人がいなかった。

 兄はその辺のやりくりが上手で、親戚にご馳走になったり、近所の家で食べていたようだ。

 小三の頃には、納豆飯ばかり食べていたような記憶がある。

 父は魚を捌いた残りを食卓に置いたが、子どもにとって刺身はけして美味しいものではない。ほとんど箸を付けずに残した。

 それでも、やはりひもじいから、そんな時は店から「茹でうどん」をひと玉貰って来て、それに醤油をかけて食べた。

 冷たい茹でうどんを湯がいたりせず、そのまま醤油をかけたのだ。

 これが何年間も続いたわけだから、さすがに嫌いになって行く。

 中学以降、三十歳くらいになるまで、ずっと「白い麺」を忌避していた。

 

 それが少し変わったのは、出張で四国に行き、讃岐うどんを食べた時からだ。

 うどんを生れて始めた「美味い」と思ったのは、それが最初だ。

 かつ、ほとんど最後だ。

 今は選択肢があるなら、うどんは避ける。

 結局はそれも幼児体験が原因だったわけだ。

 

 叔父は戦争中、「すいとん」や「芋」ばかり食べていたので、「見るのも嫌」だと言い続けていた。それだけでなく、食卓でその手の食べ物を目にすると、途端に仏頂面になった。

 今はその気持ちがよく分かる。

 小麦粉を練った餅みたいなヤツは、やはりうどんを思い出させるから、私も嫌いだ。

 「ほうとう」とか「おっきりこみ」は、どちらかと言えば、麺ではなく「すいとん」の系列に近い気がするが、もちろん、思わず顔が歪むほど嫌いだ。

 「うどん県(実はおっきりこみ県)」の埼玉に住んでいるから、多少申し訳ないが、好き嫌いだけはどうしようもない。

 

 ところで、子どもの頃にはうどんに醤油だけかけて食べたが、讃岐うどんにも、茹であがったうどんに鰹節と醤油で食べる方法もあるそうだから、それほど外していないようだ。

 数年に一度、ノスタルジアから、子どもの頃とほとんど同じやり方でうどんを食べてみるが、その都度、「不味い」と思う。でも、良き思い出だけがノスタルジアの根源ではない。

 

 ちなみに、「白麺」を美味しいと言う人とは「友だちにはなれない」と思うので、さりげなく嫌味を言って遠ざかるようにしている。

 元々、ひと付き合いが好きではなく、距離を置きたい方なので、それで十分だ。

 それを「美味しい」と思えるのは、お前たちが何不自由なく育ち、苦痛を感ずることなく暮らして来たからだ。

 生憎、私はそうではない。物分かりはよくねえぞ(笑)。

 

 味噌に甘みを足した味も、何か「別の理由」があると思うが、よほど腹に据えかねる思いをしたらしく、記憶から消えている。

 うどんの数倍は嫌いで、口に入れた瞬間に「べっ」と吐き出すほどだ。

 こんな味付けで食うヤツの気が知れない。

 食は文化だから一面的な見方で「良し悪し」を言ってはいけないと思うが、「好き嫌い」は別だ。

 軋轢が増えるので、やはり「他人と極力接触しない」のが一番だ。

 

 えらく脱線した。

 月曜は予定外の行動だったので、デジカメを持参しておらず、スマホで撮影したが、やはり何も見えなかった。

 駐車場に行くと、栗の直売所が設置してあったが、女性がひとり脇について監視していた。

 神社に参拝に来て、栗の直売所から、金を払わずに持ち去る者がいるようだ。

 行楽シーズンには、駐車場にゴミを放置して立ち去るものまでいる。

 境内の周囲には、「不浄なもの」が沢山いて、手ごろな者が来れば、その人について行く。

 神さまの前でものをかっぱらったり、神域を汚して帰るような者は、参拝したことでまったく逆の効果がもたらされることがある。

 

 何が悲しくて、自ら悪縁を拾うのか。

 ま、あの世(幽界)にいる者がどんなヤツかをまるで知らないということだろう。