日刊早坂ノボル新聞

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◎天下を取った男 「松永弾正久秀」

◎天下を取った男 「松永弾正久秀」

 戦国時代を彩る「ひときわキャラの濃い」人物の一人が松永弾正(久秀)だ。

 当初、弾正は三好長慶の家臣だったが、室町幕府との折衝で力を得たり、織田信長に仕えたり逆らったりと、気儘に生きた。

 七十歳くらいまで生きたから、当時としてはかなり長命な方になる。

 永禄年間には「天下の最高の支配権を我が手に奪ってほしいままに天下を支配し、五畿内では彼が命令したこと以外に何事も行なわれないので、高貴な貴人たちが多数彼に仕えていた」と書かれているから、差し詰め、『三国志演義』で言えば董卓のイメージと重なるようだ。

 ひと言で言えば「悪役」であり「アンチヒーロー」だ。

 

 よく知られているのは、弾正の最期の件だ(以下引用)。

 天正五年(1577年)に上杉謙信毛利輝元石山本願寺などの反信長勢力と呼応して、本願寺攻めから勝手に離脱。信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表した。信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかった。

 信長は、嫡男・織田信忠を総大将、筒井勢を主力とした大軍を送り込み、十月には信貴山城を包囲させた。

 佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求め、久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首の二つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答した。

 織田軍の攻撃により、久秀は十月十日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害した。首は安土へ送られ、遺体は筒井順慶が達磨寺へ葬った。(引用ここまで)

 

 こんな松永弾正だが、信長や秀吉、家康がなしえなかったことをひとつ達成している。

 ある意味、「天下を取った」と言ってもよい程だ。

 さて、それは何か。

 

 古文書の世界では、松永弾正は極めてポピュラーな存在だ。

 何故なら、全国各地で「松永弾正の署名のある書状」が見つかるからだ。

 書状が掛かれた時代を測れば、戦国末期から江戸の後期に至るまで、長期にわたり「弾正の書状」が残っている。

 もちろん、久秀本人の書いたものではない。誰かがそれを写したものだ。

 その意味で、「松永弾正筆」は最も贋作の多い書だと言われる。

 だが、なぜそんなに贋作または写本が存在するのか。

 信長なり秀吉、家康なら家宝として取り置くだろうし、偽物も書かれる。

 「でも、どうして松永弾正なの?」

 弾正は「反逆者」の最たる者だから、これを所持していても栄誉にならず、家宝にも向かない。

 

 その答えは「書」そのものの中にある。

 松永弾正は、すこぶる達筆の持ち主として知られ、その筆跡は多くの人が手本とした。

 弾正の記す文字があまりにも見事だったので、それを書写することが書き方の修練になったのだ。

 このため、弾正の存命中から彼の書を手本とする者が多かった。江戸幕府が成立し、世の中が安定に向かっても、その傾向は続き、写本がテキストとして使われるようになったのだ。

 こういう背景があるため、多くの大名家やその家臣の遺した書き物の中に「松永弾正書状」が紛れ込むようになったのだ。

 こういう人物は、戦国時代ではたった一人、松永弾正だけだ。

 

 書物の間に入ってしまい、具体的な場所は分からぬが、当家のどこかにもこの松永弾正書状がある。秋田角館の旧家から出た書き物の中にこれが混じっていたのだ。

 「何故ここにこんなものがあるのか」と考えさせられたが、同じような例は幾らでもあるから、「教本だった」ことが分かった。

 松永弾正は、没後、四百年を経過しても、なお世の中を掻き回しているわけだ。

 

 つくづく「誰か地元に所縁のある者が、松永弾正のストーリーを記せばよいのに」と思う。やはり「従わぬ者」には魅力がある。

 ジョーカー(バットマンの敵役)よりも、はるかに魅力を感じるのは、弾正が実在の人物だった、ということだろう。

 

 ちなみに、「敵役」は「かたき役」なので、念のため。最近、割と有名な人が「てき役」と言うので、ひりッとする。

 ついでだが、年号の「元治」は「げんじ」ではなく「がんち」。明治中期に出版社が間違えてルビを振ったのだが、今では辞書にもそう書かれている。でも、幕末のものにはきちんと「がんち」と書かれている。