

◎「この世」と「あの世」の接点 「実際にはいない筈の人影」 その2 二人組
情報を整理しようと、昨年一月の画像を開いてみたら、内容が変化していた。
この時、神殿の前には私一人だけだったのだが、人影がきちんと見えるので、「横から来た人を見落としていたか」と疑ったりしていた。
だが、いくら思い出しても他に参拝客などいなかったし、画像自体がこんな風に変化するのは、「生きた人間ではあり得ない」ということだ。
後ろにいる者(たぶん男)の頭が消え、ぶわぶわと複数の気持ち悪いのが浮いている。
雲(霧)が出て、複数の視線がこっちを見ている。
画像には、判別しやすいものだけに印をつけた。
以前は「私のことだけを見ている」性質の視線だったが、今は「あれこれと眺めている」と思う。(この画像を見る人を含む。)
前と違うのは、「悪霊化した」ことが歴然であることだ。
今現在は「地獄の釜の蓋が開いている」状態だと思うが、はっきりとそれが確認出来るとは、さすがに驚かされる。
正直、「自分は何一つ才も持たねば、役にも立たぬ無用な人間だ」と思っていたのだが、どうやら必要なようだ。とりわけこの先は。
いずれ程なく、私の言葉を「誰もが嫌でも信じざるを得なくなる事態」が来ると思う。
「二人組」は、十分に気を付けるべき存在だ。「通行霊」とは少し性質が違う。
「ひとの姿と認識できる影」については、数多くのパターンがあるため、一つひとつを再興したうえで、改めて整理する。
なお、画像右側の「左眼」はあまり長い間見詰めぬ方がよさそうだ。
ひとによっては感度が高まり、先方が「出やすくなる」状況が生まれる。
(もちろん、何か実害が生じるわけではないので念のため。影響は気分的なものだ。)
死者の存在(自我・自意識)を支えているのは、欲望や喜怒哀楽の念の筈だが、視線にはこころ(感情)が見当たらない。