日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎可視域の外の事象(霊的現象を含む)がどんな風に見えるのか

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令和二年十一月二日撮影

◎可視域の外の事象(霊的現象を含む)がどんな風に見えるのか

 私は赤外線方向への可視域が普通の人より少し広い。

 このため、「私には見えているが、普通の人には見えない」という事態が時々起きるようだ。

 今の情勢では半年後にどうなっているかは分からないので、今後は見えたものを正直に伝えることにした。

 

 この日、外出した時には、煙玉が出ていたが、多くは自然現象と考えて問題は無さそう。(これは「自然現象との違いはない」という意味なので念のため。)

 煙玉状のものは断続的に出ており、順光、逆光の違いはない。

 この日は曇りで、直射日光の影響は少ない。

 

 ただ、断続的に見えるのと、同じアングルで複数枚撮影しているのに、「写るのは一枚だけ」という特徴もある。

 「説明のつかない煙玉」の場合、カメラが捉え得るのは0.2秒くらいの範囲になる。

 

  • 煙玉 

  普通の人の可視域で「白い煙玉」が見えるのは、ひとつずつくらいではないか。

  私には歪みが見えるので、半透明のものも複数見える。

 

  • 視線

 「視線」はかたちを見ているのではなく、「じっと見られている時の圧力」のことを指している。これが強くなると具体的な「眼」になって写るようになる。

 これだけは感覚によっている。

 「誰かが見ており、何となくその視線を感じる」時に同じ。

 そういう時のざわっとした感覚を、経験と想像(や妄想)で補填したものだ。

 

  • 人影

 多くは影だけで、「黒いひと」になる。

 これが普通に見え、判別出来るようになるのは、何年かの経験による。

 普通に人と会っている時に、「黒いひと」が後ろに立っていることがある。

 私があまり人に会わなくなったのは、そういう理由から。

 もちろん、こういう部分はあくまで「想像や妄想」に依るものなので念のため。

 

 いつも書く通り、こういうのは特別な霊能力ではなく、基本は「知覚域が少し広い」だけ。あとは経験と想像、もしくは妄想によるものだ。

 他の人には見えたり聞こえたりしないので、「気のせい」が勝り、「妄想癖」に受け取られることが多い。

 私と同類は沢山いるが、おそらくこういうことは他言していないと思う。

 

 それとは逆に、実はまったく見えていない人に限って、「自分には霊感がある」「霊能力を持っている」と自称する。

 でも、単純に「想像や妄想」だけなのは、一二分で分かる。

 本当に見えている者は、現実と同じように見えているので、「現実」と「可視域の外にいるもの」との区別がうまくつかない。

 

 とりわけ、如何にも怖ろし気に「あの世(霊)を語る」のは、「妄想の方が勝っている」ように見える。

 「怖さ」を感じるのは、「相手の正体が分からない」からで、これが分かっていれば、怖れる必要はない。対処していけばよいだけ。

 

 ただ、「死後にも自我(自意識)が残存する」のは客観的事実だと思う。

 気体のような「何らかの知覚し難い物質」が関与しており、これが「(幽界の)霧」と関係している。

 これを解明すると「霊(実体として)」がどのようなものかということを証明できる。

 もはや、いい加減、「霊の恐怖」を語るのは止めて、科学的に解明することを志したらどうか。

 ところが、自称「科学者」の側の大半の者は、「霊はいないからいない」みたいな非科学的なことを言っている。もう少し、科学的レトリックを学んでほしい。

 

 いずれにせよ、「眉を顰めて霊を語る」のは、もうやめませんか?

 世の中には「私は守護霊と話をした」みたいな「わけの分からない」ことを語る人がいるけれど、「存在しない者と語る」のはすなわち「総てが想像や妄想です」という意味以外の何ものでもない。

  経験や想像によって、推測する必要があるのは仕方がないけれど、「どの辺までが事実で、どの辺は想像(や妄想)」という認識を持つようにすることが重要だ。

 すぐさま「神や仏を持ち出して説明しようとする」行為は、何の進歩ももたらさない。

 

 ちなみに、私が被写体になると、びゅうびゅうと煙玉が飛び、べろっと「何かに顔を出される」ことがあるので、記念写真として使えなくなる。気分も壊れるから、少しでも気配があった時には、写真に写らないようにしている。

 自殺した者などはかなりグロいから、食欲が無くなる。

 

 先方から私のことが見えるのは、私の方も煙玉を発しているかららしい。

 そのことは、私が「一度死んだことがある(心停止の経験がある)」のと無縁ではないと思う。