◎「魔物」は何のために現れたのか?
十一月二十三日に「魔物」らしき影を撮影した。これが三体目で、語呂が良いので「ベラ」と呼んでいる。
この魔物は何故姿を見せたのか。何かメッセージが得られるのか。
ここで改めて考えてみることにした。
これは一月の「防護服の男」から学んだことだ。あれはまだ、横浜にクルーズ船が入港する前のことだったから「防護服」の意味が分からず、その後ひと月以上を経過して、ようやく「コロナの感染拡大」を示唆するものだと理解出来た。
こういう示唆は、同時進行的にはよく把握できないことが多い。
さてこの日は祝日だったから、境内は大賑わいだった。
巫女さまたちによる神楽が披露される神楽殿の方では客が数百人集まっていた。
神殿の方にも十人程度の行列が出来ていた。
普段は参拝客が去ってから撮影するのだが、この日は無理だ。そこで、後ろの方から、自身の姿がなるべく入るように撮影させて貰った。
一枚目は、その場では気付かなかったが、誰もいない筈の位置に「大きな人影」が写っていた。その直後、私の直前に「女(実際には存在しない)」の姿を見たので、慌てて二枚目を撮影したが、拝礼を終えた男性が間に入り、「女」を隠してしまった。
次に三枚目を撮影したが、つい先ほど見た「女」は消えていた。
まず一枚目の魔物だが、身長が百八十㌢を優に超えている。長いコートを着ており、顔はライオンのような獣顔をしている。これが「女」だと思ったのは、その直後に目視で「女」を見ていたからだ。実際、体のシルエットは女性の方に近い。
私のほんの少し前にいたようだが、殆ど同じ位置だ。この魔物のせいで、私の姿が消されている。
後になり、私が気になっているのは、「私の立ち位置にかなり近かった」ということだ。
嫌な想像なのだが、「もしかして、私自身の姿だったりするかも」と思ったりもした。
過去にも魔物が幾度か画像に残っており、通称「アモン」や「猫わらし」を見て来たのだが、自分にとって異物だという気がしない。むしろ、「仲間」のような感覚を覚える。
子どもの頃から何百回も「亡者の群れを率いる」夢を観て来たせいもある。
「自分自身が魔物の仲間で、本性があの姿だったらどうしよう」
そんな不安があったのだ。
だが、入念に調べてみると、やはり魔物は私の「少し前」にいたようだ。
まずそのことでほっとする。
次に魔物の視線だが、前にいる参拝客の列を眺めている。
まるで「品定め」をするかのようだ。
ここからは想像の域になる。
もし「魔物」が、一月の「防護服の男」と繋がって居たらどうなるか。
これから訪れるのは、感染拡大どころではなく、広範囲にわたる「死」だろう。
「魔物」だけでなく、例年にも増して死者たちが騒いでいるから、大きな動きが生じるのは疑いない。
ただ、それを「感染拡大」と限定して良いのかどうか。
時々、家族で話をするが、「今の状況で他の大災害が来たら国は壊滅」することになる。
いずれにせよ、警戒するに越したことは無い。
我慢を重ねたところで、ひとまずはあと一年かそこらだ。何事も生きていてナンボ。
ひとつ私には良い材料がある。
「魔物」が私に見せるように姿を現したことがそれだ。
どうやら「魔物」の視野に私は入っていないらしい。
となると、まだ私にも生き残るチャンスがあるかもしれん。
チャンスが無い者に対し示唆を与える必要はないからだ。改善の余地があるからメッセージを送る。
ま、仲間ではあることだし。それも当然だ。
さて、二十三日には、その後、同じ位置から二枚を続けて撮影した。
二枚目は目視で「女」の姿が見えていたのだが、男性が横に歩き出し、前を遮ったので、撮影が出来なかった。
「魔物」がいた位置から少し後方には、きちんと私が映っている。
実際の参拝客よりも視線の数が多かったのだが、周囲には半透明の人影が複数写っていた。ただ、霧から実体化する中途だったようで、いずれも不鮮明だ。
三枚目では、私の近くに煙玉が出たのだが、案の定、「女」のシルエットが見える。
これは目視したのと同じ黒い服を着ているから、二枚目に写るはずだった「女」と同一だろう。あまり鮮明ではないが、髪の毛の先が見えているし、周囲には「眼」も開いている。
改めて詳細に画像を見たが、一枚目の「魔物」と二枚目の私の立ち位置は、やはりかなり近い。あるいは私のシルエットを利用してかたちにしている。
もちろん、物理的な意味でのサイズが理に適っていない。隊列より後方にいる者が前の者より大きく写ることは無い。
今日の判断の通り、「魔物」が私と近しい者でないことを願う。
ちなみに、もし「あちら組」ということが実証出来るなら、腹を括って正体を露にするつもりだった。
とりあえず、まだ当面は「人のうち」で居ることになる。
今日の教訓は、「どこで何が見ているか分からないのだから、努々警戒を怠ることなかれ」ということだ。他の者は知らず、「自身が死ぬ」可能性は高い。そう思う方が無難だ。それなら、危機に備え、その用意をして、ある程度覚悟もしておいた方がよい。
一年を我慢して暮らすのと、「来月死ぬ」のと、どちらが望ましいのか?
驚いたことに、「我慢できない」者が結構いるわけだが、自身の死を予感・予期したことがないのだろう。今日も明日も、来年も十年後も、「同じ日」が続くと思っている。
だが、そんな日は来ない。今、ことさらそう思うのは、そういう考えを吹き込んでいる「何か」がいるからだ。
「瞼を開いてものを見て、耳を欹てて声を聞く」者しか助けられない。
追記)
こんな悪縁を目視で見るのだから、現実に「相当悪いのが這い出して来ている」ということだ。これでは、あおり運転の仕返しで相手を殺したり、強盗や強姦事件が増えるのも当たり前だ。
心を平静に保つには信仰が役に立つ。
自家の信仰に従って、先祖供養を心掛ける必要がある。
自分本来の心を見失うと、脳に悪意を吹き込まれ、何時の間にか悪縁に従わされてしまう。
常に自省を心掛けることだ。