日刊早坂ノボル新聞

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◎「自ら招き入れぬ限り、悪魔は入っては来られない」(551)

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令和二年十二月十四日撮影

◎「自ら招き入れぬ限り、悪魔は入っては来られない」(551)

 悪縁(霊)を避ける方法として、祈祷がよく用いられる。神職や僧侶など第三者に依頼して、「念」の力で邪気を払って貰う方法だ。

 神や仏に仕えるのを仕事にし、毎日修行をしていると、次第に「念」が強くなり、圧力として扱えるようになる。

 これも勿論、「有効な場合がある」わけだが、しかし、あくまで「他力」による方法だ。

 当事者が変わらぬのであれば、繰り返し悪縁は寄り憑く。

 まずは「自分の力で寄せ付けぬようにする」ことが肝要だ。

 

 一般人が活用できる心構えとして、昔から伝えられる良い言い回しがある。

 それはこれ。

 「悪魔はこちらが招き入れぬ限り、入っては来られない」

 この場合は「家の扉」のことを指す言い方だが、「ひとの心」も同じだ。

 悪縁(霊)は、生前の恨みを晴らすことより先に、自身の延命(幽霊として)を図る必要があるから、他の幽霊やひとに近付き、これと同化し合体することで、自我を強化する。

 それには、まず自分を「受け入れて貰う」必要がある。

 この場合の「受け入れる」こととは、「共感する」ことを意味する。

 同じ感情を共有することで、心の振幅が同調し、次第に同化するようになる。

 

 こういうのは「振り子」と同じで、振幅が大きい程、心に隙間が開き、ペースを合わせやすくなる。すなわち、感情が高ぶった状態こそが悪縁にとって「入り込みやすい状態」だということ。

 怒りや恨みの念を抱いたり、後悔や怖れにとらわれたりするなど、心が揺れている時ほど、悪縁に入られやすくなる。

 いつも、幽霊の対処法として「怖れぬこと」「敬意を示すこと」を真っ先に掲げているのだが、これは「相手との間に距離を置く」ためでもある。

 

 例えばこんな状況だ。

 車を運転している時に、前方に割り込まれ、急ブレーキを踏まされたとする。

 「コノヤロ。腹が立つなあ」と誰しも思う。だが、殆どの人はそこで立ち止まる。

 「ま、その調子では自損事故でも起こすだろ」「警察に捕まるだろ」

 などと考えて、気を紛らわす。

 だが、頭の中で「声」がけしかけて来ることもある。

 「許せん」「あいつを懲らしめなくては」

 「殺してやる」

 もちろん、ここでも殆どが止まるだろう。腹は立つが、煽りを始めるのはやり過ぎだ。

 だが、その「声」に背中を押され、前の車を追いかけ始める者が幾らかいる。

 この瞬間が「扉を開いて招き入れる」ということだ。

 いざ招き入れたら、「怒り」が何倍かに増幅されているから、もはや止まることが出来なくなる。

 

 どんな感情でも、気持ちが大きく揺れ動いた時には、「ちょっと待てよ」「今の子の気持ちは果たして自分自身のものかどうか」と自分に問う必要がある。

 

 私は時々、かなり前に、ある年上の女性に言われた言葉を思い出す。

 「今がとても苦しくて、自分にはこの夜を越すことすら難しいと思うことがある。でも、『これくらいは誰の身にも起きている普通のことだ』と思い直せば、案外平気なものよ」

 「苦しい」と思い詰めれば、生きているのがほとほと嫌になるが、「これくらい、どうということもない」と思いなせば、割合乗り越えられる。

 「気の持ちようで、見え方は変わる」、ということだ。

 

 まずは悪心を「極力、抱え込まぬ」ようにするのが肝心だ。

 これも「扉を閉じて」中に入れぬことに通じる。

 

 さて、十四日はいつものルーティンに従って、N湖からいつもの神社まで巡回した。

 さして、気掛かりなものは見受けられなかった。

 N湖は、昨年より格段にきれいになった。途中から通行止めになっており奥には行けぬが、もう一箇所の地点を浄化できれば、まったく問題が無くなる。

 私自身のガラス映りにも異常が無かったが、この日は日中からどんよりと曇っていたので、そもそも画像には残り難い。

 TPOが整わぬと、「あの世」を覗き見ることは出来ないのだ。