日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎画像がフリーズする要因

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◎画像がフリーズする要因

 画像は昨年の六月に撮影したものだ。当時も簡単に紹介したと思うが、解釈に手間取り、結論を出せずにいた。繰り返し検証を試みて来たが、ようやく見解がまとまって来た。

 

 さて、岩手郡にある御堂観音は、私が現在のように「あの世」観察を始めるようになった「直接のきっかけ」となった場所だ。ここでの出来事は、どうやっても「説明の出来ない現象」だったので、自ら進んで検証を試みるようになったのだ。

 これまで繰り返し言及して来たので詳述を避けるが、概略はこうだ。

 最初は四年前の七月のことだ。国道四号を南下していたら、持病の筋膜腫が痛み出し、どうにも堪らない。「どこかで休んでいくか」と思い立つと、すぐに「御堂観音」の道案内表示が見えた。

  すると、頭の中で「ここにお参りをすると、お腹の痛みが治るよ」という声が響いたのだ。そこで、国道を外れ、お参りしていくことにした。

 記念写真を撮影すべく、カメラのスイッチを入れて階段を上がると、下向きにした画面に煙玉が見えていた。そこで階段を上がったところで撮影すると、お焼香場で光玉(煙玉の一種)がバラバラと写ったのだ。

 そこから、奥にある「ゆはずの泉」に向かうと、後で分かったことだが、目には見えぬ霧が境内を覆っていた。

 帰路に供養塔の後ろを撮影すると、女性がこちらを覗き見る顔が写っていた。

 その時を起点として、長らく持病だった脾臓と胆嚢の筋膜種が数か月で治ってしまった。

 そこで、それ以後、この地方を訪れる時には、必ずこの神社を参拝し、泉の水を飲むようにしている。ここに参拝する度に「煙玉」「眼に見えぬ煙(霧)」などが必ず画像に残る。

 これが大まかな経緯だ。

 

 さて、最初の訪問で「人影」が顔を出した辺り、すなわち供養塔から三十㍍ほど後方には、いつも大きな光の輪が見える。恐らくこの周辺に、時々、「交流点」のようなものが発生し、「この世」と「あの世」が繋がるのではないかと思う。

 この推測を確かめるべく、いつも「供養塔の前から」「手水場から」と、いずれも定位置から撮影している。

 

 この日も同じように撮影したが、手水場から撮影した画像のうち、赤外線撮影を行ったものだけが、どうしても開けない。

 画像ファイルが壊れているわけではなく、JPGファイルはきちんと存在しており、プレビュー画面には画像が映っている。ところが、これを開こうとすると、途中で必ずPC全体がフリーズしてしまう。

 再立ち上げをして、再び開こうとすると、やはりフリーズしてしまう。

 画像処理ソフトを使っても同じ結果だ。存在しているのに開けない。

 

 そこでPC画面を、デジカメで撮影し、当該画像の内容を確認したが、別段、おかしなものが写っているわけではないようだ。

 これを拡大して、最初に目に付いたのは、手水場の梁の下の「輪縄」状のものだ。

 少なからずドキッとする。

 

 それには幾度かこういう経験があったからだ。

 ある寂れた神社を訪れた際に、社務所の近くに行ったのだが、傍の建物のガラス窓に私が映っていた。「ガラス窓に自身の姿」とくれば必ず撮影するようにしているので、ほとんど無意識にカメラを取り出し撮影すると、私の後ろのほうに立っていた樹に輪縄が下がっていた。

 撮影した直後に発見したので、すぐにその樹を確かめてみたが、別段何もない。

 そこで再びその位置に戻り、改めて撮影すると、やはり白く半透明の輪縄が写る。

 下がっていた輪縄は、やはり首吊り用のあのかたちだった。

 察するに、首を吊って自死した者が残した「念」があのかたちになって残っているのではないか。何せ、見えているのが「輪縄」でしかないから、あくまで想像に過ぎぬが、画像にしか残らぬのだから、そこまでしか確かめられない。

 人影が下がっているより、どこか薄ら寒いところがある。

 (ちなみに、「人影が下がっている」方は、もはや見慣れてしまい、どうということもない。怖ろしいのは幽霊そのものではなく、怨念や悪心ということ。)

 

 そんなことが幾度かあったので、画像に「輪」が見えると、反射的にそのことを思い出すようになったのだ。

 だが、その想像は誤りだった。次の画像で確認出来るが、元の画像にちょうど輪になるように木々が立っているのが確認出来るからだ。

 見ていた場所が「穴(交流点)」の近くだから、「何かあるに違いない」と思い込んでしまう。そういう時に「気のせい」が、「異変」に替わってしまいがちだ。

 

 結局、最近まで「フリーズの理由」は分からなかった。

 数日前、改めて画像を取り出し、拡大してみると、どうやら赤外線画像の方には、「霧」やら「煙玉」がボコボコと沢山写っていたようだ。

 通常撮影の方には、光の歪みと一箇所だけ、「中央に眼の開いた」煙玉が写っているだけだが、赤外線画像の方は、まったく違っている。

 やはり境界線の上に「またがって存在している」らしい。

 PCのモニター画面をそのまま撮影して、うっすらと分かる程なのだから、元の画像はかなり鮮明なものになっていると思う。

 それと、今回初めて分かったことだが、赤外線画像の方では、私のすぐ目の前に「何か」が立っていたようだ。

 ほんの数メートル先で、私のことを見ている。

 そうなると、元の画像を「開けない」のは、良かったのか悪かったのか。

 少しく微妙な気分だ。

 

 どこの「穴(交流点)」でも同じだが、周囲には人が住んでいて、ごく普通の暮らしを送っている。「穴」の存在は、生活に何ひとつ支障をきたさぬわけだが、私を含むごく一部の者にとっては別の意味を持つ。

 その場所にいわゆる「スポット」があるのではなく、その人がそこに行くから「スポット」の扉が開くのだ。

 もちろん、いつも書く通り、その人に特別な能力があるのではなく、常に「瞼を開き、耳を欹てている」ので、向こう側がそれを悟り、近付いて来るということだ。

 

 少し補足するが、四年前に脾臓と胆嚢の筋膜腫が治ってから、年に三四回ほど「ゆはずの泉」で水を汲み、これを飲用している。

 一般的な解釈は、「湧き水を飲むことが、体内のカルキを排出することに繋がり、結果的に循環が良くなる」というものだろう。実際、ゆはずの泉でなくとも、自然湧水を飲むことで体内浄化の効果が得られる。

 劇的な変化が起きるかどうかは、「その人による」ようだ。

 最初、泉の水を一旦、煮沸してからコーヒーを沸かして飲んだのだが、当日の夜に、私は酷く下痢をした。私と同じように、叔母も最初のお茶で下痢をした。

 最初に反応があった者だけが免疫力強化に役立つようで、下痢をしない人はその後も「変化が無い」と言う。どうやら、「湧水そのものの効能」「この泉の影響」+「α」の要因があるようだ。

 要するに、これを飲んだからといって、「ご功徳」が現れるわけではない。

 信仰心を持たずに、お守りを持つだけでは、何の役にも立たないのに似ている。 

 信仰は「念」域に近いから、これの伴わぬお守りは、単なる「紙と木」に過ぎない。

 

 追記)いわゆる「心霊写真」は、時の経過と共に変化する。前には見えなかったものが徐々に前に出て来ているようだ。

 マスクにサングラスの顔?は私に似ている。ま、先入観だとは思うが、気分はあまりよろしくない。ま、幾日か前に自分自身の影を見たばかりなので、「これか」と先走ってしまいがちだ。

 

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