日刊早坂ノボル新聞

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◎三月十五日の出来事(570解説) その2

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令和元年三月十五日撮影

◎三月十五日の出来事(570解説) その2

 二枚目以降については、目視の段階で、左側の入り口の様子が眼についた。

 その時、周囲数十㍍の範囲には誰もいなかったのだが、複数の人影が歩いて来る様子が見えたのだ。ただの黒い人影だから実在する人ではない。

 すぐに連写したのだが、比較可能にするために、ほとんど同じ位置に立ち同じアングルになるようにした。

 残念ながら人影の多くはうまく写らぬか、ごく僅かだけだった。

 

 ただひとつ言えることは、こういう現象が起きる時には、殆どの場合、「光の進む方向に影響が生じる」ということだ。他にも、電磁波や放射線に振れが生じることがあるようだが、こちらは証明出来ていない。

 この日は十秒から二十秒ごとに撮影したが、画像の「同じ被写体」のフォルムが著しく変化している。ガラス戸なので、風で揺れる可能性もあるが、それならこんな風にぐにゃぐにゃに曲がったりはしない。

 四つの石柵のかたちには、各々に相違がみられるが、とりわけ四枚目が異常だ。

 黒い「何か」に浸食されているように見えている。

 私には「顔を少し右に傾けた女性」の顔に見えるのだが、やはり判然としない。

 むしろ、右隣の「女」は眼が写っているし、上の「女」はそこにはある筈の無いマスクを掛けている。

 

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 実は画像を点検し、最初に「これは」と気付いたのは、このマスクの女だ。

 撮影を終え、階段を降り、出口に向かって歩いていると、参拝客の女性とすれ違った。

 頭から額までの一帯に独特の「曇り」があるから、この女性は一人で来ているのだが、一人ではない。複数を「連れて来ている」わけだが、これは眼ではっきり確認出来ずとも、それと分かる。これまで憑依めいた状態の人々を見て来たわけだが、表情に一定の特徴がある。

 こういう表情の人は背後に背負うものがあり、悩み事が一層重くなっている。

 かつ、死者の側も同様の表情をしている。

 そのため、その人に眼が止まったということだ。

 

 すれ違った後に数歩歩くと、「助けてやれ」という声が聞こえた。

 普段は一二㍍後方から現実の声で聞こえるのだが、この時は頭の中で響く声だ。

 その声に思わず立ち止まった。

 「え。どっちのひとのこと?」

 今すれ違った女性か、その背後の者の「どちらなのか」という意味だ。

 そこで、すぐに振り向いて、四五十㍍後方からであるが撮影させて貰った。

 何かしら示唆があるのなら、それで分かるかもしれない。

 帰宅して一番最初に、最後の画像を開いたのだが、別段、それらしいものは捉えられていなかった。いくらか気配があるだけだ。

 

 そこで「マスクの女」の件に戻る。

 画像を点検して、「マスクの女」のところでドキッとしたのは、この「女」の様子が、参道ですれ違った参拝客に酷似していた、ということだ。

 最初に考えることは、「気付かぬうちに女性客の姿が写り込んでいたか」というものだった。

 ただ、この客は私よりかなり後から来たし、この人は参道の中央を通っていた。

 「マスクの女」は、暖簾(垂れ幕)の高さにいるが、これはそもそも床から二㍍近い。神殿の前にいたなら、もっと下の位置になるし、室内ならはるかに大きく写る。

 一方、幽霊は「その場にいる人に姿を似せる」ことがある。「女」がマスクをしているからと言って、過去一年内に死んだ者とは限らない。

 自身に似た者、気付かれずに近寄りたい相手の姿に「似せる」ことがあるようだ。

 私自身、私と似たような外見をした男の姿を画像に捉えたことがある。

 

 ここで「助けてやれ」という言葉の意味が分かる。

 参拝客の女性が一緒に連れて来た者を「助けてやれ」と言っているのだ。

 背後をきれいにすれば、当然、その主人も苦痛や悲しみが小さくなるから、「誰を」は区分する必要がない。

 この参拝客は、割と頻繁にこの神社に来ているようだから、次に会った時には、背後に眼を向けようと思う。こちらの視線を捉えれば、必ず私に乗り換えると思う。

 現実の参拝客本人は、何も知らず、関わらず、通り過ぎるだけだ。

 

 駐車場の車に向かったのだが、遠目でも「車の中に女が乗っている」ことが見て取れた。

 これは完全なる「目視」の状態だ。前にも「子ども」が乗っていたことがあるが、その時よりも鮮明だった。

 これがどこで乗ったのかは、正確には分からない。

 家までついて来られては、多少煩わしいので、すぐにドアを開け「ここで降りるように」と声を掛けた。この時点では「女」の姿は見えなくなっているが、まだ乗っている。

 気体なのか光に近い者なのか確定出来ぬが、とりあえず、外に出られるようにする必要がある。

 そこで全部の窓を開き、暫くの間、そのまま待った。

 「どうしても降りたくないなら、暫くは良いが、俺を煩わせるのは止めてくれ」

 ひとまず気配が消えたので、そのまま帰宅した。

 

 あの「助けてやれ」という声の主は、私が「アモン」と呼ぶ幽霊だろうと思う。

 顔は怖いが、欺瞞を許さぬ以外は、まともなヤツだと思う。

 ま、心に欺瞞を抱えぬ人はいないから、「アモン」の前では、ほぼ総ての人間がアウトではある(苦笑)。

 従前、アモンは外から話し掛けていたのに、今は頭の中で声が響く。

 私の妄想癖がいよいよ酷くなったか、あるいは文字通り「中に入った」ということだ。

 

 最後の「現実の参拝客にそっくりな女(の幽霊)を見付けたこと」と、「『助けてやれ』と声を掛けられたこと」、「車の中に女が座っているのを目視したこと」が重なり、著しく動揺した。ひとつ二つなら驚かぬが、この日はガラス映像も含め、大半が目視できる状態だった。

 一方、最近の「悪夢続き」が、今は嘘のように消え、ぐっすり眠れている。

 それでも、まったくご供養をしなかったので、今も幾つかは連れているとは思う。