


◎小学校の悪縁
家人は小学校に勤務している。
数年前のことだが、ある小学校で、こんな話が出たそうだ。
この小学校では、「毎年、四月になり学校が始まると、新任の先生が必ず怪我をする」らしい。
そこで、先生方の中に、「この学校には悪縁が取り憑いている」と噂する者がいる。
曰く、「この学校は、元が沼地で湿気の多い土地だったのを埋め立てて造られた。そこで祟りが起きる」。
何故なら、四月五月には「決まって教員の誰かが転んで怪我をしたり、事故に遭ったりする」とのことだ。
その話を聞き、家人に二三確かめてみた。
「一体どれくらいの先生が事故や災難に遭うの?」
「毎年二三人」
「先生は全部で何人?」
「二十五人」
ダンナ(私)は思わずゲタゲタ笑った。
「それじゃあ、ごく普通のことだよ」
これが十五人とか二十人なら、「おかしい。何かあるかも」と疑うのも仕方ない。「毎年、新任教師だけ四五人が亡くなる」なら、疑いなく異常な事態だ。しかし、新任の先生が、慣れぬ赴任地で、ちょっとしたトラブルに遭うのは「当たり前」の範囲だろう。
もちろん、だから「一切を無視して良い」ということではない。
「地縁」、すなわちその地由来の因縁が関わることだって無くはない。「郷に入らば・・・」が大切なのは、生きている人間の関係に限ったことではない。
家人にはこう助言した。
「もし、その地に因縁があり、それが元で凶事が起きると考えるなら、さっさと慰霊なりお祓いなりを行えばよい。先生全員が揃って、お神酒を上げ、『この地を使わせてください』と頼めばよいだけのことだよ。あとはそれから。それで止まらなかったら、またその時に考える」
「きっと悪縁の仕業」と噂する者に限って、まずは何もしない。ただ騒ぐだけ。
原因が何かの因縁だと思うなら、それなりの手を迅速に打てばよいだけのこと。あとはそれから。
◆「障りなど無い」と考えるなら、「新任教員は気を付けてください」と告知すればよい。要するに、人事に専念し、注意深く行動するよう周知させるということ。
これだけで確実に怪我人が減る。
◆「この地の何かしら因縁がある」と考えるなら、これを鎮めるために祈祷(地鎮の祀りごと)を行えばよい。効果のほどは分からぬが、もし無ければ、また別の手立てを投入する。
ただ、これだけのことだ。
この段階では「実際に何が起きているかを確かめ、実証する」必要などは無く、個々の判断に従って「迅速に対処する」ことで、容易に解決が導かれる。
愚かしいのは、次のような考え方(または姿勢)だ。
「現実には存在しないものを怖れる」
「現実に存在しているのに、瞼を閉じ見(え)ぬふりをする」
時々、私自身も陥るが、「薄の揺れるのを見ても、悪霊の仕業に見える」ことがある。
だが、「風で揺れている」と思えば、どうということもない。
加えて言えば、それが何か説明の出来ぬ原因によるものでも、特別な影響が生じることはほとんどない。
逆に、現実にはレアなケースだが、幽霊が働き掛けているのに、「そんなものは存在しない」と唱えることで、対応を誤ることがある。
現実として認めぬことで、事態を余計にこじらせ、厄介なものにしてしまう。
これだけでも十分に愚かさが伝わるが、もっと愚かに考える人も沢山いる。
「死後に自分がどうなるかが分からないのに、幽霊を怖れ、見ぬふりをする」
現状は殆どの人がこの位置から一歩も歩み出していない。
その人によって長短はあれど、人が死ねば、その後は必ず幽霊のステップを経る。
それなら、そもそも「怖れる」必要などない。
ある程度、自身の死期を見越し、「死後をどのように迎えるか」という方法論に進むべきだと思う。
追記)「小学校に出る幽霊」
この小学校だったかどうかは失念したが、家人の勤務先小学校には「子供の幽霊が出る」という噂があった。
夕方、午後六時過ぎに、宿直の先生が見回ると、児童がいなくなった後の構内で「パタパタ」という足音が響く。
また、夏休みにPTAのお母さんたちが集まると、別の教室で、やはり「パタパタ」と子供の足音が響き、声が聞こえる。
みたいな話だ。
悪戯者の子どもが入り込むケースもあろうが、仮に幽霊であっても、ある程度「起こり得る」事態だろうと思う。
人集まりには幽霊がつきもので、「駅」や「都心の雑踏」にも時々、生きた者ではない人影が混じる。(終日、赤外線カメラで撮影していれば、撮影出来るだろうが、人が多過ぎると、どれが本物で偽物かの区別がつかないきらいがある。)
子どもはエネルギーが強いので、幽霊も引き寄せられるが、しかし、別段、影響は無い。
家人が撮影した小学校の写真にも、煙玉ならバラバラと写っている。
ちなみに、トイレに幽霊は出ない。怖く感じるのは、そこがやや暗く、密室だから。
それと水道管を水が流れる音の影響による。
墓地、病院、トイレは、「幽霊が出にくいところ」の代表格で、単なる印象に過ぎない。