日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎言葉の由来 「伊達男」

f:id:seiichiconan:20210407200252j:plain
f:id:seiichiconan:20210407200241j:plain
f:id:seiichiconan:20210407200230j:plain
f:id:seiichiconan:20210407200221j:plain
大太刀と最後は南部刀

◎言葉の由来 「伊達男」

 冒頭の画像は、いわゆる「大太刀」で、いずれも二㍍超級のものだ。

 サイズを比較するために置いている「大刀」との比較で、長さが違うように見えるのだが、実際には、どれも大きな違いは無い。

 大太刀は概ねこの近辺の長さになっている。

 

 尋常ではない長さだから、「普通の大刀の二倍近くあるから、これを振るのは容易ではない。実際に使用したのか?」などという疑問が起きる。

 ネットのコメントを見ると、「飾り物だろう」みたいなことが書いてある。

 しかし、「飾り物説」など、「おいおい。一体何を言ってるの?」という次元の話だ。 武具に「飾り物」「奉納用」の拵えはなく、いずれも実戦用途になる。

 熱田神宮の大太刀などは、「真柄直隆が姉川の合戦で使った(1570)」という伝承があるし、古式武術では戦後もこの大太刀の稽古をしていたから、それが画像で残っている。

 今のことは調べていないが、たぶん、今も稽古自体は行われていると思う。

 

 さてここからが本題だ。

 江戸幕府が開闢してから、60、70年ほど経過すると、ようやく社会が落ち着いて来る。刀の仕様も様変わりし、鍔が実戦用の大きなものから、やや小型の装飾を施したものに変わって来る。

 そのような世情の中、京の町を「大太刀を背中に背負い、馬で練り歩いた」侍がいた。これが仙台伊達藩の藩士たちで、伊達の侍はとかく派手好みで、目立つことを優先した。その侍が馬に乗った時に「背の刀が地面に届くほどの長さ」だったというから、疑いなく大太刀のことだろう。

 これを見た、京の町民は、「あれが伊達の侍だ」「あれが伊達の男よ」とはやし立てたという。

 これが今でもたまに使われる「伊達男」の起源となる。

 (出典は主に新渡戸仙岳『仙岳随談』による。)

 

 隣同士はとかくあまり仲が良くないものだが、この仙台伊達と盛岡南部はあまり良好な関係とは言えなかった。

 大太刀を担いで市中を練り歩いた伊達藩士と違い、南部藩士は質素なものを好んだ。

 「南部刀」はいずれも持ち主を体現するようなつくりで、簡素で実用的なものとなっている。

 冒頭最後の画像はその「南部刀」の一形態で、小刀とさして変わらぬサイズだが、平時ではこれ一本のみを差して歩いたようだ。懐刀よりは大きく、仕様は大刀(打刀)と同じだ。

 武家屋敷では鴨居が低く作られているが、これは大刀を自由に振り回せぬように設計したものだ。相手を青眼(上段)から切ろうとすれば、鴨居に当たってしまう。

 だが、この南部刀なら、容易に相手を狙える。剣闘を前提としていないので、鍔も不要だ。