◎「浄化」を始める(574)
最近、治療の方針変更があり、まだそれに慣れていないので治療の後がややキツい。
通院日には、帰宅してからも家で横になっていることが多い。
木曜もかなり「よれて」いたので、とりあえず帰宅しようと思っていた。
エレベーターで階下に降りる際に「四文字熟語」を撮影しようとしたが、この日は花の映像だった。「とりあえず」と撮影すると、たまたま画面が切り替わり、室内映像になった。
別段異状なし。
だがそこで、「やはりすぐに始めよう」と思い立ち、神社に参拝することにした。
参道を歩きながら、「俺に寄り付いても望みは叶わない。俺には助けられないので、皆さんはここで降りて下さい」と告げた。
「今夜から悪縁断ちを始めるので、予め断っておきます」
ご神刀で切られると、幽霊であっても痛みのようなものを感じるらしい。正確には「痛み」ではなく、「不快さ」のようだ。
あとは日頃のローテーションどおり。
自身の状態については既によく分かっているので、画像で身の回りを見る必要は無いが、これもルーティンになっている。
ま、六月の末か七月くらいまでは、画像にはほとんど異変が残らない。これも例年のことだ。
痕跡のようなものはあるが、「気のせい」で片づけられそうな水準だ。
ましてや、この日は急に思い立ったので、改定していたのはコンパクトカメラだ。情報量を幾ら上げても解像度には限界がある。
「ま、今日は降ろしに来ているんだから、他のは気にするなってこと」
煙玉は割と出ていると思うが、それも鮮明ではない。この手に見慣れていなければ、識別出来ぬ程度のものだ。
神社で祈願したから、あるいは祈祷で圧力を掛け、遠ざけたからと言って、悪縁があっさり消えてくれるわけではない。
こちらに関わろうとする意思を捨て、納得して貰わぬ限りは、繰り返し付きまとって来る。
遠ざけるため、「悪霊退散」と叫び、破魔の真言を唱えることで、逆に近付ける面も生じる。誰でも、いきなり罵られれば腹を立てるものだからだ。
常に「相手からどう見えるのか」を想定する必要がある。
重ねて病気になったり、不慮の事故・事件が続いたりすると、ひとは「悪縁」の所在に結び付けて考えるようになりがちだ。だが、そういう考え方自体が悪縁を呼び寄せる要因になる。
「こんなのはどうということもない」「きっと立ち直れる」と見なし、努めて明るく考えるようにすると、悪縁の方が近寄り難くなる。
神社の帰路には、あれほど強かった「怒り」のスイッチに蓋が被さっていた。
「色々と困難なことが続くが、目の前のことを一つひとつこなして行く外にない」
この幾日間が嘘のように思えるほど、冷静な心境になっている。
悪縁が「ひとの体調を崩させる」ステップには、「とかくマイナス思考に陥らせる」という要素があるようだ。
怒りや悲しみ、恨みなどの心情は、体に過剰なストレスを掛ける。
まだはっきりと因果関係は分からぬが、こういう影響で、自己免疫力が低下するのではないかと思う。
そういう経過を辿るケースは「ごく少ない」とは思うが、そういう負荷が原因で心身に不調が生まれているなら、負荷を取り去ることで病状を改善出来るということだ。
「信仰によって病気が治った」という話をよく聞くが、そういうのも十分に「アリ」だと思う。
もちろん、神や仏が治しているのではない。ここを勘違いすると、本質を見誤る。
信仰によって「自身の心が安定した状態になる」ことの効果だろう。
仮に神が存在したとしても、生きている人間に手を出して人事を改変することは無い。
それをするのは、偽善の方、すなわち悪縁だ。多く、眼に見えぬが、何かを貰うと、必ずそれは「借り」になっている。要するに、生前の内か死後かは分からぬが、何時かは返すことになるということだ。
私は「生前も死後も、ただのものは無い」とよく書くが、これはそういう理由だ。さらに、「死後に返す」方が利息が高い。
こういうのを避けるのは、それほど難しくない。
花の咲くのを見て、「美しい」と感動する。
その花が散るのを見て、「命のはかなさ」に感じ入る。
「それなら一日一日を大切に暮らそう」と考える。
このような流れで考えられるようであれば、悪縁は自ずから去って行く。
悪縁に打ち勝つというのは、「追い払う」ことではなく、「乗り越える」ことだ。
私自身に限って言えば、周囲から悪縁が消えてなくなることは無いと思う。
先方には灯台のように見えるのだから、寄り付くのは致し方ない。
灯台でも高波に流されることは滅多に無いから、波を乗り切るように、やり過ごして行けばよい。
追記1)◆「小さいひと」について
たまに背丈が30㌢か40㌢の小さい「人型」が写る。
一体、これがどういう性質のものなのかがサッパリ分からない。
仏像みたいだったり、貧乏神みたいだったりする。
今回は「個人的にコロナ不況の谷底にいるから、きっと貧乏神だ」と納得した(大笑)。
ま、これは「たまたま」かもしれん(平坦で無味無臭)。
追記2)「黒いひと」
幾度となく台所で視界の端に「黒いひと」を見ていたが、さきほど、それが急に陰から現れ近寄って来たので、一瞬、ドキッとした。
だが、家人が「痩せて見せよう」と企み、「全身黒づくめの服を着ていた」だけだった(笑)。
「黒いひと」を目撃するなどは、普通、一生の内に幾度も起きない出来事だと思うが、いざ見始まってしまうと、頻繁に見るようになる。
そして、どれもこれもが「黒いひと」に見えてしまうようになる。