


◎歴史の断面(2) 大正期の日韓の関係 「朝鮮舞踊の招聘」
最初の画像の説明文の内容はこう。
「朝鮮の音楽や舞踊はまだ内地には紹介されていないけれども、彼の地の長い歴史が生み出したこれらの芸術には却々(なかなか)捨て難い情趣のものがある。そこで音楽舞踊が著しく隆盛になって来た今日、内地や西洋のそれにも少し食傷して来た人々は、一種の幽婉な哀調を持った朝鮮音楽や朝鮮舞踊に新しい興味を感じている者が少なくない。写真は三月四日から八日まで大阪三越呉服店楼上において開催せられた朝鮮舞踊の産業の舞で、非常に人気を集めたものである。」
現在の韓国では「日帝時代には朝鮮文化が徹底的に弾圧された」と若者に教育しているわけだが、これは概ね「作り話」だ。
実際には日本人は朝鮮を歓迎し、内地とほぼ同じ基準で教育制度を整え、上下水道等環境整備にあたっていた。日本人は歴史と伝統を好むから、古来からの伝統文化についても敬意を払った。
西欧の支配した「植民地」支配とは性質がまるで違う。
ここが対台湾とかなり違う点で、台湾では山岳民族が日本(と言うより外の権力)の支配を嫌い、激しく抵抗したから、日本軍は武力を行使して鎮圧した。
併合時代の半島で大規模な武力行使が起きたか?
日本人の中にも、韓国の粉飾史を信じる者が居て、逆に驚かされる。
「事実」と「気分」は違う。
何事もまずは「事実」を検証してからだと思う。
もちろん、物事はひとつずつ確かめるべきで、二三の事柄だけで何かしらの結論を付けるつもりはない。今後も継続して事実関係を調べて行く。
ちなみに、この年(大正15)の四月に大韓最後の皇帝の純宗李坧が死んだ。朝鮮併合は、借金苦に苦しんだ純宗が日本に泣きついて併合して貰った性質のものだったが、日本はその国家予算の何倍かの借金を総て返済した。
純宗は「朝鮮王族」として、皇族に次ぐ地位を得たが、その皇太子の李垠(奥さんが日本の皇族で方子)は李王(公族)として丁重に扱われた。
以上は、もちろん、「そういう一面もある」という意味だ。
歴史はクリスタルと同じで、見る角度によってはまるで違ったように見える。
どれかひとつだけが正しいと言えるケースは少ない。
ここで言えることはひとつだけ。
「日本が朝鮮伝統文化を否定し、総てを日本風に改めさせた」という話は概ね嘘だということ。
出典は『歴史写真』(大正15年5、6月号)による。