◎「顔無し」になる理由(592)
月末はあれこれと忙しい。とりわけ昨年からは毎月やりくりが大変だ。
この日も外出したので、帰路に神社に参拝した。
もう私の「秋」は始まっているから、よりよく観察して置く必要がある。
何せ、私の寿命自体はきっと既に終わっている。
まだ正午頃なので、陽が高い。撮影環境としては、少し時間帯が早いのだが、気にしては居られん。
赤外線撮影を織り交ぜながら、自身の様子を観察することにした。
画像を開いてみて、眼を止めたのは、私の「顔が無くなっている」画像だ。
手や足が消えるのと同様に頭が消えてしまうケースも時々ある。
もちろん、目の錯覚と言う場合も多いから、前後の状況を確かめるのは当然だ。
前の二人の左後ろに私がいるのだが、頭部にさらに背後の景色が写っている。
よく見ると、顔の部分に煙玉状のものが出て居り、その影響だと思われる。
その直後の画像では、その煙玉状のものが右手に移動してかたちを変えていた。
「一体、これは何?」
拡大して確かめると、どうやら女の手指のようだ。「女」だと思うのは、指が細いから。
真後ろの空間(光)も歪んでいるから、留意しておいた方がよさそう。
ま、肩に顔が載っていたりすることもあるし、だからと言って、すぐに何かが起きるわけでもないので、驚くほどのことはない。
むしろ、胴体のどこかに集中して煙玉が出るよりは、まだましな方だ。
具体的な患部に煙玉が出るケースは、何かしらの「バランスの欠如」を表していることがある。
過去に幾度か、病気になる直前に、その患部付近に煙玉が現れた。
だが、こういう時には、割と鮮明で、かつ「偶然生じたものではない」と分かりやすくなっている。
人影(手)に掴まれたりすることも割合起きるのだが、「何となく惹かれて近づいて来る」ケースや「助けてを求める」ケースが殆どだ。
日頃、「(お焼香をして)慰める」習慣を持てば、幽霊が長く留まったりはしないものだ。
もちろん、初めのうちは驚いた。
ぼんやりしている分にはともかく、アリエネーくらい鮮明な時がある。
「これから一体どんな凶事が起きるのか?」と不安になったりするわけだが、案外何も起きない。
いつも記す通り、「怖れぬこと」「敬意を示すこと」「好奇心から近づかないこと」などの決まりごとを守れば、問題が生じることは少ない。
もちろん、大仰なお祓いも必要ではない。あの世を理解し、きちんと向き合えばいいだけで、何事も自力で対処するのが基本だ。他力本願的に職業祈祷師を頼んで力で追い出しても、本人の生き方が変わらぬ限り、繰り返し寄り付く。
自身がそのままでいる限り、終わりはないわけだが、それは死んだ後も変わらない。むしろそっちが本番になる。
死後は思考能力の大半を失うから、今度は「自身を見つめ直す」ことが出来なくなる。
こうして、当てもなく彷徨う幽霊が各所に現れることになる。
執着心に囚われ、生前の姿を留めている者でも、次第に自我が崩れ、消滅していくが、これを嫌い、他の者と同化し合体することで延命(幽霊としての)を図ろうとする者も居る。
「憑依」という言葉に似ているが、実態はかなり違う。
あくまで「同化・合体」で複数の自我(自意識)が合わさって、ひとつになる。
最初は別々だが、いずれも同じ「私」という意識を保ち続ける。
その対象は「生きている者」であることもあるのだが、ほとんどが他の幽霊だ。
幽霊は別の幽霊を食って命(この場合は自我)を繋いでいる。
神殿を去る時に、自身の肩越しに後ろの様子を撮影したが、「女」はそのまま残った模様だ。
ちあみに、赤外線カメラの場合、ガラスの向こうの景色は画像に写らない。この場合は、ガラスに反射した外の様子だけが写る。
この時、外に居たのは私一人で、こういう場合には、例えどんなに不鮮明でも、人影があればそれは幽霊だ。「気のせい」でも「霊感」でもなく、合理的な判断になる。
神殿は人々が「感謝の気持ちを伝える」あるいは「念を送る」ところなので、圧力(もしくは波)が生じている。その流れに背中を押されて、進むべき道を辿れば、自我を解放し寛解に到達できる。
きちんと「あの世」を理解すれば、信仰によって迷いが少なくなる。
もちろん、単にしきたりに従って神仏に手を合わせるだけでは、何の役にも立たない。
知識で解決できることは少ない。
追記)異変(幽霊)の現れるプロセス
1)最初に霧のようなもやが出て、2)ロープが触手のように伸びて来る。次に3)そのロープが煙玉のように丸くなって、人型か人の一部に形を変える。
こういうプロセスで幽霊が実体化する。
別のパターンでは、1)空気中から放射状に筋が伸び(動きは逆で集まっている)、2)その白い筋が丸まって、煙玉になる。この場合は人型にはならず、煙玉の中に顔が現れる。