


◎「ペットボトルが倒れていた件」の続き
多くの人が勘違いをするが、体の不調を「泉の水」や「女」が助けてくれているわけではない。それらはあくまで想像や妄想の産物だ。
「ゆはずの水」を周囲の人に試したが、これを飲んで何らかの変化が生じた者は、私の回りでは十人中二人。私と叔母だけだ。
よって、「そこに行けば治る」「飲めば治る」みたいな性質のものではない。
心の中に自己免疫力や治癒力を高める何かのスイッチがあり、それを上手く押せると、身体の不調を幾らか改善出来る。
「白い着物の女」や「泉の水」は、そのスイッチを押すための「きっかけ」を果たしているのに過ぎない。
私と叔母は、両方とも「死後の存在はある」と確信している。
いつも記す通り、この場合の「信じる」ことは「願う」こととは違う。「現実と見なし、思考や行動の基準にする」ことが「信じる」ということだ。
「床に散らばったペットボトル」について、「本当は何故起きたのか?」「要因は何か?」みたいなことにこだわっていると、時機を逸する。
「もしかして」の段階で、「念のために先手を打つ」、「すぐに対処して置く」という流れを身に着けることが重要だ。
実際に関わりがなければ、何も起きぬわけだが、何もしなければ、何かが変わるチャンスそのものが無くなる。結果をあてにしているわけではなく、「もしや」を考慮した上での「先手」ということ。
繰り返すが、ペットボトルが散乱しているところを見て、「何故?」で止まらず、「これは何かの示唆である(可能性がある)」と感じ、さらには感じた瞬間に「即座に対策を打つ」ことが肝要だ。
もちろん、それはあくまで「自分自身に対して」ということで、自律・自律・自制はそれこそ自分自身に対してのみ働かせるものということ。
自身のスイッチは、自分なりに見つける他はない。
いつも思い返す事例がある。
ある夫婦のうち妻の方が末期癌に至り、夫婦の「思い出づくり」のために二人で高地にハイキングに行ったが、そこで野花を見て「なんて美しいのだろう」と感動した。
その瞬間にスイッチが入り、病気が完治したというケースだ。
そういう他の人の事例を見て、見よう見真似でそれと同じ場所を訪れても、おそらく何も変化は起きない。それは「その人のスイッチ」ではないからだ。
常日頃から、よりよく内省し、自身を見詰めることが必要だ。
こういう考え方は、障害が起きてからではもう遅い。何も障害が無い時に、自ら時間を作り、自身を眺め直すことが大切だ。
困難が生じた後では、改善願望が先に立ち、「信じる」ことと「願う」ことがごっちゃになってしまう。思う通りにならぬからと苛立つ。
そうやって苛立つと、余計にスイッチが遠ざかる。
そこで「助けてくれ」と他者にすがる。その思考回路では何も変わらない。
神社寺社には、その社寺への祈願によって「現世利益が生じる」と謳うところがあるが、「行けばよくなる」ことはない。自分自身の人生を変えるのは、その人本人の心持ちだ。
私には、常に私を見る「白い着物の女」(「御堂さま」と呼んでいる)と「猫」がいる。これは確信、と言うより現実だ。
もちろん、その二者が私に対し何かをしてくれるわけではない。
ただ傍で見ているだけで、たまに存在を示す程度なのだが、それがいるといないのでは心持ちが全然違う。
繰り返しになるが、「あの世」の者は、生きている者に対し、具体的に手を伸ばし助けてくれることはない。
もしそれをする者があるとすれば、それは「善き者」ではなく悪縁(霊)の側だ。
現世において「降って沸いた幸運」は、多くの場合、「ツケ」になっており、その「ツケ」はその人の死後に払うことになる。これはかなりの「高利貸し」だから注意が必要だ。
朝目覚めたら、もはや鎮痛剤が不要になっている。
完治するまでは、十日くらいだろうと思う。
ま、いずれにせよ、人生は有限で、私のそれは徐々に終わりに差し掛かっている。
自分の足で立って歩ける時間が、少しでも長く私に残っていることを願う(ここだけは願望だ)。
追記)「第六感」「霊感」みたいなものは、その殆どが「想像や妄想」だと思う。
もちろん、それには自身のそれも含む。出発点はそこ。
ただの「想像や妄想」なのだが、それを踏まえつつ、かつ、それをうまく利用すると、割合、効用を引き出すことが出来る。