日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎起きる人にだけ起きる

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あの世(幽界)との関り

◎起きる人にだけ起きる

 あの世とこの世を跨ぐ現象は、誰の身にも同じように起きるわけではなく、特定の人にだけに起きる。

 他の人には影響がなく、何でもない場所なのに、人によっては、足を踏み入れるだけで具合が悪くなる場合がある。

「人を選ぶ」のだ。

 先日の「階段の灯りが消える」という事態もそれだ。

 家人や息子が上り下りしても何ら異常が起きぬが、私が通ろうとすると途中で灯りが消える。一度(または数度)だけなら、「たまたま接触が悪かった」で済む。

 あるいは、ずっと消えたままなら、「電球が切れた」か「回線不良」を疑う。

 だが、この「消灯」は人を選んで起きている。数度だけでなく、毎夜毎晩、私が通る度に起きる。通り過ぎると直っている。

 要は私に向けて「見てくれ」「聞いてくれ」と働き掛けていたのではないかと思う。

 

 「自分にだけ起きる」というのは、なかなか薄ら寒い事態だ。ここに至り、初めて「何かしらのメッセージがある」ケースを想定することになる。 

 相手のことが見えず聞こえず、気配が薄くとも、「何かのメッセージがある」という事態を予期し、さらには先手で立ち回らぬと、返事はどんどん先に進む。

 カーナビが誤作動を繰り返したり、信号待ちの時に背後から車が突っ込んで来たりする。

 一回の出来事(事故)だけを切り取ると、「ただの偶発的な出来事」なのだが、これが二度三度と重なると、もはや偶発的とばかりも言えなくなって来る。

 私の実体験だが、交差点に停止中に、後ろから追突されたことがある。車を修理に出し十日後にこれが戻って来たのだが、その日の内に、また同じように後ろから車が飛び込んで来た。相手の運転手に聞くと、「前に意識が行かず、まったく見えなかった」とのこと。

 初回と違い、「戻ったその当日に」「再び交差点で追突される」ことは偶然では置き難い。 

 こういう経験が重なると、「信じる」とか「信じない」の次元ではなく、前提として「あると仮定して」「どう対処するか」という話になる。

 その方が対処が早いし、後手にも回らぬからだ。

 

 二十年以上前に、岩手から東京に向かって高速道路を走らせたことがある。

 S市まで順調に南下していたのだが、そこで急遽、カーナビが「(一般道に)降りて下さい」と指示した。時間的にも距離的にも、高速を直進するのが最も近いのに、「降りろ」と言うのだ。

 その時、私は少し疲れていたのと、食事を摂りたかったので、ナビの指示に従い、高速を降りた。

 カーナビが案内していたのは、市の繁華街の方向だった。寄り道になるわけだが、目的地は東京なので、いずれは国道の方に戻ると考え、そのまま進んだ。夜遅い時間帯だったが、ラーメン店でもあればそこで何か食べられる。

 ところが、カーナビは街の中をぐるぐる回らせるだけで、一向に国道に出ない。

 同じ個所を三度通る事態になったので、ようやく「誤作動」だと気付き、カーナビを消した。それから、道路標示だけで街を出て、バイパスに出たところで、再度、カーナビを「距離優先」で入れた。こうすれば国道以外に選択肢はない。

 ところが、それから山道に入ったかと思うと、どんどん奥に入って行く。

 当初は、「山ひとつ向こうに国道がある」と思っていたので、そのまま従った。

 すると、車は山の中に入って行き、道がさらに細くなる。

 片側一車線道路だったが、その先で着いたところが、寂れた廃寺だった。

 すぐにバックにバックを重ねて元の道に戻り、広そうな道路を辿って、ようやく国道に出た。

 

 そういう経験があり、以後は何となくS市を避けるようになった。

 高速を通るのは致し方ないが、一般道ではS市内に入らず外側を迂回した。

 こうして十年くらいの間、S市を避けていた。

 だが、さすがに十年も経つと、あの体験のことは忘れがちになった。

 知人友人に「冗談めいた恐怖体験」として話せるようになった程だ。

 それで少しガードが緩んでいたらしい。

 「そろそろ大丈夫だろう」と根拠なく思い、S市の手前から一般道を走行してみた。

 取り立てて問題も無さそうだったので、市内で食事をした。

 ところが、やはりそれでは終わらなかった。

 食堂から出て、高速に戻るべくカーナビを「インター」に向けたのだが、ここでぐるぐる回りが始まった。最初は通るのがやっかいな細い路地をくねくねと回ったかと思うと、今度は次第に人家の少ない道に入って行く。

 そのままどんどん道が細くなり、片側一車線に。それも細くなり、車の左右のガラスに長く伸びた草が当たる細道に入り込んだ。

 さすがに「この先には行けない」と思ったところで、カーナビの経路指示が一瞬で全部消えたのだ。

 先が行き止まりの山道に誘導されたいたわけだ。

 例によって、バックにバックを重ね、方向転換が出来るところまで下りると、そこからは道路標示だけで元の道に戻った。

 さすがに二度目は冷静だったので、「片側が崖」の細い山道から転げ落ちずに後進出来た。

 こういう出来事があったので、「どうもS市とは相性が悪いようだ 」と多方に記した。

 この体験のことは、このブログにも書いている。過去記事が残っていれば、直後の状況も記してあると思う。

 

 「どうにも反りの合わぬ人」がいるように、「相性の悪い土地」もある。

 だが、そういうのは、他の者(当事者以外)には無縁であることの方が多い。

 そこに住む人にとっては、何の問題も生じず、異変が起きるのは、その当事者だけだ。

 これは冒頭の「階段の灯り」の件によく似ている。

 家人や息子には何も起きないのだが、私の時だけ起きる。

 あの世の住人(幽霊)が注視しており、メッセージを送っているのは、私だけということだ。

 

 幽霊は、自身を認識し、見聞きしてくれる者のところによく集まる。その者が意識すればするほど、さらに集まる。

 「見てくれるから」「聞いてくれるから」と言う理由だが、それ以外にも、「接点を持たぬ相手のことは認識そのものが出来ない」という要素もある。

 死ねば五感を失うので、「眼で見て、耳で聞く」ことが出来なくなる。その代わりになるのが、「心に生じる感情のうねり(波)」だ。これが自分と似ている者であれば、五感は無くとも「相手がいる」と悟ることが出来る。

 生きている者がなかなか死者を認識出来ぬように、死者も生者のことをうまく認識出来ない。認識出来るのは、自分に近しい者だけになる。

 となると、「なるべく接点を持たぬ」という対処法も、当然成り立つ。

 「そんなものはないと信じる」ことで、接点が生じ難くなる。怪しい地には近づかなければよい。

 

 だが、私のように「一度は死んだことがあり、否応なしに接点が生じてしまう」者はそうは行かない。もし相互に影響が生まれそうであれば、なるべくそれを早く察知して、手を打つことが必要になる。

 既に黄昏時を生きているわけだから、陽が沈んだ後のことを意識しないわけには行かぬのだ。日没はすぐそこだ。

 こういう話は「あの世との関りがもたらす異変」をあまり感じたことの無い者には、奇異な話に聞こえると思う。起きぬ人には何も起きないから、当たり前ではある。

 

 異変は人を選んで起きる。

 これまで怪談めいた経験談には、それが起きた場所の地名を記してこなかった。

 これは「ホラー話の場所(スポット)」という喧伝にならぬようにするためだ。

 そこに住む人にとっては、よき街であり、愛すべき故郷なのだから、それを貶めることになっては申し訳ない。

 だが、「人を選んで起き、他の人には影響が無い」のであれば、別に地名を記しても構わぬと思う。何故なら、あの世的な関りを持たぬ者が訪れても、何も異変は起きぬからだ。

 文中の「S市」とは白河市のことだ。

 この地に限らず、こういう出来事(変事)が私には時々起きる。

 私だけに起きているのであれば、まったく問題にはならないが、他にも幾らか知覚域の広い人はいると思う。

 

 この対処法は割合簡単だ。

 初段階に於いて、何となくヒヤッとした感覚がある。「こそばゆい」にも似た感覚だ。

 そういう時には、「きちんと挨拶をする」ことだ。

 「これから私はこの地に足を踏み入れますが、貴方さまの邪魔をしたり、この地を汚したりするつもりはありません。通り過ぎるだけですので、通行を許して下さい」

 文言の内容はあまり重要ではなく、大切なのは「畏敬の気落ちを示し、丁寧に頼む」ことだ。

 これで殆どの場合は無難に通行出来る。

 

 今では白河市周辺にも自由に行き来することが可能になった。

 思い起こせば、二十歳頃に「合宿免許」でこの市に訪れたが、その時既に「異物」として認識されていたようだ。