平成になり「称浄法寺銭」を標榜する鋳放し銭が世に出たわけだが、その中にはどうにも理不尽なものが含まれていた。
その代表的な銭種が「寛永一文背ナ文」だ。
昭和五十年台には、こういう品は出ていない。平成になり忽然と関東で市場に出た。
地元の人も関東から買っており、浄法寺町内での発見例はない。
仕方なく、先方の言い値で購入して、詳細に検分することにした。
ここは「怪しい」と思っても、所感に留まってはダメで、常に実証を試みる必要がある。
印象を云々言うことほど時間を無駄にするものは無いからだ。
背ナ文の特徴を上げるとこうなる。
1)通貨ではない。浄法寺山内座およびその周辺の密鋳銭座であれば、寛永鉄銭か当百銅銭の鋳造が中核になる。当百錢と同じ地金の仰寶などが存在しているので、幾らか当四銭を作った可能性があるが、一文銭は銅銭、鉄銭とも製造した形跡がない。これは経済効率の話で、どうせ密造するなら価額の高いものを作る、ということだ。
軽米大野や八戸領であれば、一文鉄銭の密鋳が行われたが、これは時代的に浄法寺山内座が出来る以前の話だ。
2)湯口が小さく、輪側を仕上げている。
湯口が小さいことで、枝に付けたまま使用しようとしたものではなく、枝から落とすことを前提としている。またその割には、面背への研磨が行われていないので、極めて不自然である。
要は、見仕上げのバラ銭を作ったことになる。奉納用の枝銭ではない。
要は通貨ではなく、奉納枝銭でもない、ということで、地元で出ていないところを見ると、素性が極めて疑わしい品だと言える。
次に仰寶の鋳放し銭はどうか。
昭和五十年台の出現では、専ら天保当百錢が取り扱われており、寛永銭についての情報はない。
これも平成になって現れた銭群である。
ただ、湯口が大きいので、枝銭を前提として作成したものである。これをペンチのような鋏で折り取っているわけだが、母銭としては使い道がない。
枝に着いた状態であれば、それだけで推定が可能になるわけだが、何とも言えぬ。
ただし、鋳放し銭(A)タイプの地肌とは明らかに違ことと、平成になって出た小字鋳放しの製作に酷似しているのは事実だろう。
ま、枝銭は絵銭の類と見なすことが出来るので、絵銭というジャンルに括れば、さほど問題ではなくなる。史料的には枝に付いた状態の方が価値がある。
名称を「絵錢・仰寶鋳放し」とすれば分かりよい。
最後に「Ǒ氏作仰寶湯口付き」を掲げて置く。
O氏は長銀、豆板銀の複製を作ることが巧みで、作品が今も大量に出回っている。
区別のつかぬ品もあるが、「誰が作ったか」が分かっているので、議論の余地はない。
銀物だけではなく、穴銭の複製も行っており、こちらも巧みである。
仰寶のような安価な母銭であれば、ほとんど値が付かぬので、湯口を残し、希少感を醸し出そうとした。
これが「鋳造法の研究のため」ではないことはつくりを見れば一目瞭然だ。湯口以外の外周には仕上げが施されているのに、何故か最初に落とす筈の湯口をそのまま残している。
現実にはあり得ぬ品である。
また、母銭として作るのであれば、工期の一番最初に母銭を作り終える。よって、通用銭製造に至った銭種では、未仕上げ母銭が残ることはない。
裏に朱書きが入れて有り、これを「参考銭の標識とし収集家を惑わさぬように入れた」とう話があるわけだが、虚偽である。
何故なら、仰寶などはあくまで練習台で、本番はもっと希少な銭種に向けられている。
希少な銭種を演出しようとしているので、それが「大量の貨幣を鋳造する用途」の特徴から外れているので、自ずから贋作であると知れることになる。
この地金、この砂、この仕上げに「少しでも似ている」だけで、疑った方が良い。
相手は一流の造形家である。
表演が黒くなる配合を選んだのは、古色を演出しやすいからで、その風貌から「浄法寺銭」という名称が付与されることがあるが、そもそも浄法寺山内で採択された地金の配合とは違う。
注記)いつも通り記憶だけで記して居り、推敲も校正もしない。ヒントを残す目的で行っているので、検証はご自身でどうぞ。