日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭の間から出た変な品」(その2)

f:id:seiichiconan:20211119124547j:plain
f:id:seiichiconan:20211119100736j:plain
f:id:seiichiconan:20211119100729j:plain
f:id:seiichiconan:20211119100721j:plain
f:id:seiichiconan:20211119124556j:plain
鉄銭の中から出た変な品(2)

◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭の間から出た変な品」(その2)

 NコインズǑ氏が亡くなった折に、所沢の倉庫整理で出たコイン処分の手伝いをした。こういう場合、雑銭が主体だから、如何に残り物を出さずにきれいにまとめるかが主眼になる。もし残れば、価値はゼロになる。これは市場の競りと同じ理屈で、残り物は捨て値で処分される。

 この時は「グロス勘定」の方針を立て、「ばら売り」でなく「まとめ売り」にした。

 トータルで売り上げが上がれば、結果的に売り手が得をするので、一枚一枚の値を主張するよりよい。

 こういう感覚は、完全にビジネス感覚によるので、高額品を割と値引きして出すこともある。もちろん、それには「抱き合わせ」の品がついている。

 収集家は「一枚一枚を手の上に載せて細かく見る」生活を送っているので、こういうグロス勘定は理解出来なかったらしい。

 数千枚五万円分の雑銭の中に母銭が何枚か見えていたとする。それを取り出して売れば一枚が八千円とか一万円になるかもしれぬ。ところが、その数枚を抜いたら、残りの雑銭に手を出す者はいなくなってしまう。結果的に差し引きニ三万のマイナスで終わる。

 母銭が見えていれば、皆が競るようになるから、枚単価×千枚で五万円だったセットが六万七万に「化ける」。こちらはプラスニ三万だ。マイナス数万とプラス数万なら損得が二倍になる。

 それなら、当初の袋を「開けずに提供」した方が、はるかに大きな利益が生まれる。

 これがグロス勘定だ。トータルで得をするし、三者(売り手買い手と仲介人)が全部プラスになる。

 面白いのは、収集家の幾人かは「母銭が見えているのにそのままにしてあるのは、目が利かないからだ」と考えていたようだ。

 それならむしろ好都合な展開なので、「興味ないからですよ」「興味ないものは見ません」と答えていた。それで、「こりゃ拾い物が混じっているかも」と思ってくれれば御の字だ。

 古貨幣全般のオーソリティーになったところで、たかが「手の上の金屑」の話だ。

 そんなので人生など何一つ変わらない。 

 もう一度書くが、「そんなので人生の本質が豊かになったりはしない」と思い知るべきだ。あくまで「道楽」の域で、「必要な要件ではないと時々、自身を戒める」ことが大切だ。

 失礼だが、いつも「この人たちはビジネスの世界では使いものにならない」と思っていた。逆に、研究畑出の者だって、同じように使いものにならない。もちろん、これには自分自身も含む。

 

 脱線したが、グロス勘定でも克服出来なかったのが、鉄一文銭だ。

 所沢の倉庫なので、関東の品が主体になる筈だ。

 そこで、誰の眼にも「石巻背千の山」が眼に浮かぶので、一人も手を出さない。

 差銭を「1本千円」で出してもひとつも売れない。たぶん五百円でも同じことだ。

 結果的に鉄銭何千枚かが丸ごと残り、処分に困った。

 「これだけはどこに持って行っても、たぶん、売れませんね」と遺族に伝えると、「では差し上げます」ということで、引き取ることになった。

 鉄一文銭できれいな差しで括られたものは、ほぼ石巻銭だ。これがやはり九割だから、先人たちがしたのと同じように、クズ鉄屋に出すか、基礎工事の底に撒くしかない。

 これは地元仙台の人でも同じだと思う。

 これが何万枚かの規模で触った後になると、もはや「千」という文字を見るのも嫌になる。勢い、「母銭だけ集める」収集家が大勢を占めるようになる。

 ここで、「ただの珍銭探査」の罠に陥る。オークションだけに出て、高額品を買い漁るようになる。

 石巻背千は品物も分類も沢山あるから、次第に母銭も忌避するようになる。

 これが密鋳背千になると、「見すぼらしい」という要素が加わるので、さらに興味を損ねる。かくして、過去の寛永銭譜では「密鋳背千」の分類は「拓一枚だけ」の掲示になった。

 

 その母銭でさえも、かつ地元でさえも、「背千」は重く見られなかった時期があるようだ。

 かつて仙台の藤崎デパートにコインショップがあった頃(今は知らぬ)には、東京に向かう途中で敢えて仙台駅で途中下車し、牛タン定食を食べ、藤崎百貨店のコイン売り場に寄った。

 ある時、店頭に行くと、店員がブック数冊かを出そうとしていたので、それを見せて貰うと、中身は総て背千の母銭だった。

 それまで背千には興味がなく、分類も何も分からない。いわゆる「食わず嫌い」というヤツだ。

 そんな私だったが、さすがに「元文大字背千」は分かる。「千」の文字がでっかいからだ。「爪貝寶」なら判別が容易なので尚更だ。

 そこで「幾らですか?」と訊くと、「一枚五千円」だとの答えだった。

 「そんな筈は無いのだが?」と頭に浮かんだが、とりあえず「大字」だけ何枚か買って帰った。

 帰路、上野から家に向かう途中で大塚に寄り、Oコインの小母さんに「大字だよね。小字よりだいぶ少ない筈だけど」と訊くと、「そうだよ」との答え。

 いつも小母さんには世話になっていたから、そのままその母銭を分けてあげた。

 仙台のコイン店にはまだ「大字」があったのだが、あの枚数を見ると、さすがに「食欲が減退する」。一度に沢山見ると、どうしても有難みが減る。 

 しかし、あれはどんな事情があったのだろう。

 おそらく収集家が亡くなり、遺族が売りに出したのだろう。遺族もコイン店の店員も「よく分からなかった」ということだ。もちろん、私も同じで、私はいまだに「石巻背千」のことをよく知らない。

 「十字銭(千)」と「舌銭大字(様)」が「大字背千」からの変化だということは分かるが、それ以上掘り下げて、石巻銭を調べる気にはなれない。

 母銭だけ見ていてはダメなことは承知しているが、背千鉄銭の後遺症と言うか、満腹な気持ちには勝てない。

 以上には「石巻銭をけなす」意図は無いので念のため。それだけ仙台藩は「かつて大藩だった」ということだ。

 石巻背千だけで何万枚か触っている。ほとんど素通りだった。

 

 全編が脱線気味だが、ここで冒頭の話に戻ると、最後に鉄一文銭の中で一割のウブい密鋳銭が残った。包みを見ると、段ボールの小箱一つ分が岩手から運んだ品だった。

 密鋳銭ならバラエティが豊富なので、見ていて楽しい。

 通用銭改造母経由の写しや、舌銭類、目寛見寛(めかんけんかん)類など、その都度手が止まってしまう。

 それ以外に、何とも言えぬ奇妙な品が出る。

 

イ)木彫印判絵銭 駒引 (俵に極印)

 この品は前にも紹介した品だ。これは県北で購入した密鋳銭の間に挟まっていた。

 木彫りの判子を砂笵に押し当てて作った。

 銭座職人が余り物で作ったのだろう。小さく薄く見すぼらしい。

 美術工芸品としての価値は少ないが、れっきとした歴史の証人だ。

 

ロ)背文改刻絵銭 大福二神

 背文銭を粘土で型取り、その粘土が乾かぬうちに表面を刻んで、別の意匠に直したものだ。このため、面背とも山が低いし、背には文を削った痕がある。

 この手法は他地域でもあり、背文改刻銭は割と見掛ける銭種だが、流通銅絵銭が「たまたま密鋳鉄銭の間に入る」ことはないので、「そこで作った」と見るべきだ。

 鉄銭の間にあった割には、状態はそれなりによい。

 

ハ)目寛見寛座 座寛写(目寛ではない) 

 二戸(福岡)は盛岡藩なのだが、ここで目寛見寛類を作成した藤八は、元々、葛巻鷹巣の職人だった。よって、系統的には八戸領の技術を踏襲している。

 ま、「二戸藤八銭」と表記する方がより正確だとは思う。

 質の良い鋳砂の手配が出来なかったので、山砂を多用するが、それではきれいな母銭を作ることが出来ない。目寛見寛の母銭には表面がブツブツの汚い品が沢山あるが、あのような出来栄えになってしまう。

 ここからは推定だが、初期段階では母銭製作に際して、粘土型を使用したと思う。

 粘土であれば、表面を平坦に仕立てやすいからだ。

 だが、粘土型の欠点は、乾燥の仕方によっては型自体が著しく縮小してしまうことに加え、使用可能な回数が少ないことだ。

 よって、母銭の多くを粘土型で作り、鉄銭には山砂を使った。

 これが、目寛見寛類があの形態になった主な原因だ。

 けして鋳写しを重ねたからではない。あまり乾燥させぬ粘土型を使用すると、一発でサイズが縮小するし、書体にも変化が及ぶ。これは実際に実験をしてみて分かったことだ。

 あれは「作ろうとして作った」のではなく、「あのようになってしまった」ということだ。

 

 通用鉄銭の方は、砂抜けが悪いこともあり、判別に苦労するのだが、慣れて来ると手触りで分かるようになる。

 まずは銭径だ。あの銭径、重量の品は、「密鋳背千(葛巻以外)」「舌千小字(様)」「目寛見寛類」が該当する。

 トータル的には幾つかの限られたパターンしかない。

 だが、常にルールに外れる品が存在する。とりわけ目寛見寛座の周辺は、面文の変化が著しいから、別種の品が混じっていても気付き難い。

 この品を指で持つと、多少の違和感を覚えるのだが、それも厚さと重量だろう。

 微妙だが少し薄い感がある。

 八戸銭では面文の変化は「当てにならぬ」のだが、一瞥では四つ寶銭の「何か」に見える。

 そこで画像を拡大してみたが、書体自体は「座寛」→「目寛」の流れに沿っていた。

 寛字右に欠損があり、字が締まって見えたことと、寛の尾が長いので違って見えたわけだ。

 だが、そこまでの違いを総括すると、原初形態から派生しているようにも見えるから、この品は「目寛」ではなく「座寛」をそのまま写した品の可能性がある。

 または「目寛の小異」ということだ。

 寛字のしっぽはまるで虎の尾状に長い。

 

 ところで、葛巻鷹巣鷹ノ巣)の銭座職人が、自身で鋳銭を試みるにあたり、何故に盛岡領二戸まで移動したのか。

 当時は国境を越えることは大ごとで、百姓であれば越境は重罪だった。

 葛巻の国境では、山の斜面の東西に「相手の家が見える距離」で家があったのだが、戦後の一時期に至るまで、相互に一切の付き合いが無かったそうだ。

 理由は「こっちが盛岡藩で、あっちが八戸藩だから」というものだ。

 

 藤八は銭の密造を試みようというのに、越境というわざわざ目につきやすい行動を取っている。

 そのひとつの答えが「砥石」だ。

 この地方の砥石の主産地は二戸でこの地の他にはほとんどない。ここには石切り場と作業工房があったので便利だった。地域の複数の工房があれば、同じような作業場を設けても公に露見し難い。

 目寛見寛類の母銭の顕著な特徴は、輪側を普通の砥石で仕上げていることだ。「砥石の上で銭を研いでいる」から、角が直角に立っている。

 

ニ)珍開駒引 亜鉛

 亜鉛味の強い地金の珍開駒引だが、金質から劣化しやすい。他方、塩に強い側面もあるので、亜鉛含みの絵銭は「沿岸地方のもの」という説がほぼ定説になっている。

 代表事例には「開運弁天」などがある。

 見すぼらしく、古銭評価は低いのだが、資料的には博物館級の品だ。

 「野田通り」の産ではないかと思う。

 

注記)いつも通り、一発殴り書きであり推敲や校正をしない。不首尾はあると思うが、日記としてヒントを記している。

 なお、今回、売却の意向に応じ、早速、申し出があったので、上記の品はオマケとしてその人に進呈するものとした。

 古銭としては大した品々ではないが、資料的には十分だと思う。地元在住の方であるし、上記の話が通じるのは、地元(の一部)にしかいない。