


◎古貨幣迷宮事件簿 「鉄銭の仕分け」
これから鉄銭を研究したいという若者のために、幾つかヒントを残すことにした。
詳細は避けるので、「自分なりに考え、規則を見出す」ことが肝要だ。時間はたっぷりある。くれぐれも珍錢探査に陥らぬこと。これに嵌ると、脳が硬直する。
A 鉄銭の仕分け
1)材質の違い
まずは材質の違いに着目し、1)高炉鉄、2)砂鉄およびづく鉄再鋳鉄、3)その他の精練を経た鉄、を軸に大別する。
いずれも同じ鉄なので、仕分けできぬものも当然あるが、無理に当て嵌める必要はない。「分からぬものの方が多い」「分かるものもある」と思った方が前進できる。
2)型の違い
銭座によって、固有の型を持つ場合があるので、それを当て嵌める。
例えば、①はひと目で分かる山内銭だ。
砂鉄であり、背盛のかなり極端な小様母銭を使用している。
砂鉄×小様母銭の適用=概ね山内座のもの、となる。
密鋳銭座では、母銭製作にあまり気を遣わず、一般通用銭を改造して、これを母銭に充てた。もちろん、例外もあるが、背盛の密鋳母銭は極めて少ない。
②は高炉鉄。
③は高炉鉄だが、大迫の割と大型の母銭を使用している。二十九ミリ前後の母銭を使用しているし、づく鉄を再度溶かして鋳銭に充てているので大迫銭である。
ところが、大迫銭には、砂鉄製や、づく鉄製、高炉鉄(橋野の銑鉄)製など、様々なバリエーションがある。
実は大迫銭が最も難しい。
B 銭種の目安を付ける
鉄銭は錆に覆われ、面文が定かではないことが多いのだが、錆落としをしなくとも銭種が分かるケースがある。
背盛、仰寶、その他の銭など、銭種ごとに輪幅と内輪幅の比に数種類のパターンが存在している。各々について、それを使用した銭座を特定出来る品があるから、まずは輪幅に着目するとよい。
C 大迫銭には色々ある
上でも記したが、大迫座は盛岡藩の中心銭座のひとつであったから、各地から素材を買い集めて大量に銭を生産した。
記録上は「橋野高炉から銑鉄を買い入れた」ことになっているが、発掘銭を見ると、づく鉄経由の地金の品が含まれている。
画像のロがその具体例だが、銭座を百姓が焼き討ちした際に、焼け跡の資材を川淵に運んで捨てた。
収集の先輩がこのことに目を付け、川の近くを探したところ、枝銭やバラ銭が多数出て来たとのこと。それを分けて貰ったのがロだが、上質の砂鉄製であり、外気に当て放置していても、まったく錆が出ない。
さすが日本刀の素材に転用された鉄だ。
背盛には「玉鋼」の品が存在しており、南部史談会で「これは銀なのか鉄なのか」という議論がなされた由が記録に残っている(『南部史談会誌』)。
山内座で作られた「玉鋼の背盛」は、青寶楼の所蔵であったが、氏が逝去した折に流出し、東京のブローカーS氏の手を経て、関西H氏に渡ったようだ。
そのH氏も数年前に亡くなられたのだが、その後の消息は不明だ。
地元の者でもこのことは知らぬので、もし出てくれば、世の収集家は「鏡のような鉄銭」だと不思議に思うだろう。もしかすると、「磨いてある」と言い出す者も出るかもしれぬ。
「あるらしい」という噂を聞き、すぐに駆け付けたが、既に売れた後だった。
初値が十万くらいだったが、末端では、一体幾らの値が付いたのだろう。
歴史の証拠品なので、是非とも地元の博物館に入れたかったところだ。
ま、地元で最大の博物館は、盛岡藩の貨幣にはあまり興味を示さぬようで、収蔵意欲がないらしい。
画像では分かりにくいのだが、ロの地金には、手触り、見栄えともほれぼれする。
この鉄なら、まさに「質の良い刀が作れる」とつくづく思う。
追記)ハの型は、大迫の原母に近いものか、あるいは山内座の濶縁の手だ。後者の可能性も有力だが、表面がツルンとしている部分が多いので、ひとまず大迫に入れた。
ちなみに、栗林や橋野の説は真っ先に除外される。この型は無い。