日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「大型和同鉄銭、その他」の質問への回答 その1

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大型和同鉄銭

◎古貨幣迷宮事件簿 「大型和同鉄銭、その他」の質問への回答 その1

 最近、割と古銭に関する記事を読んで貰っているようで、若手を含め四十歳台の人までの範囲で時々質問を受ける。自身で調べればそれで済むものもあり、一つひとつには到底答えられぬのだが、答えるべき質問もあるようなので、自分なりの回答を試みる。

 まず最初に伝えて置くことは、この質問者は「自分なりの見解と根拠を挙げている」という正しい姿勢を取っていることで、それは良い点だと思う。

 そのことを評価するので、今回、なるべく丁寧に答える。

 さて、道楽の世界では、年齢に関わらず人は皆対等な立場だ。「対等な関係」が前提で、学ぶべきことを持っていれば、相手が小学生でも「先生」になる。

 古貨幣研究は若者の寄り付かぬジャンルになってから久しく、私も数十年間、「若手」のままだった。しかし、その間、先輩からは、常に「さん」付けで呼ばれた。子や孫の年恰好でも「さん」になる。よって、相手が若者でも子供でも、大人に対するように意見するし、時には厳しい表現を用いるかもしれぬ。この場合の叱咤は「仲間として扱っている」という意味だ。大人の世界では、「面と向かって厳しいことを言ってくれる」相手がいることが「宝」のひとつになる。

 普通は当人のいないところで陰口を言うだけ。

 

0)全般的な考え方

 質問者はまだ学生とのこと。最初に伝えて置くのは、「まずは野球やサッカーなどスポーツをやり」「広範囲な勉強をして」「女子と付き合ったりする」ことにエネルギーの多くを費やすべきだということだ。

 年齢に応じ、その頃でなければ出来ぬことがあり、年を取ってからでは出来なくなることも多い。まずは体を鍛え、広く学び、恋愛に勤しむことが大切だ。

 古銭など、後になってから幾らでも出来る。中高年では、時間をどう使うか制限が生じるから、家の中で出来る趣味や道楽にウエイトが移る。焦らずとも、子育てが一段落した頃でも集中してやればよい。

 若いうちは、古銭に振り向けるのは「せいぜい1割2割のエネルギーとお金」に留めて置くべきだ。

 その代わり、お城など史跡を見に行ったり、山に登ったりすると良い。そこで見聞きしたことが、後になり古銭を含め役立つようになる。

 私は父から数十年に渡り、「道楽は脇に置いておけ」と言われ続け、父の言うことをまったく聞かずに来たわけだが、今は父と同じことを言う。若者が生活の中心に置くべきのなはけして「古銭」ではない。古銭で高まるのは無駄知識だけで、「器」も「幅」も広がらない。小さな金屑に意識を集中するから当たり前だ。

 手の上の小さなものばかり見詰めていると、器そのものが小さくなるし、古銭を作った人の心情が想像出来なくなる。

 お金を密造した者は、「きれいな品」を作ろうとしたわけではなく、「お金として受け取って貰えるもの」を「利益を出すため」に「なるべく大量に」作った。そういう人間の所為を想像出来ぬと、「密造(銭)」「贋金」づくりの現場で何が考えられていたかを見失ってしまう。

 勉強の分野なら、高校生であれば、最も重視すべきは数学だ。数Ⅰか数Ⅱで「集合論」を学ぶと思うが、論理学の基礎は集合論だ。そのことが「言える」のか「言えない」のか。あるいは「確からしさ」はどうかという手続きについて学ぶ必要がある。

 大学生では、科目として「論理学」の講座がある学校は少ないのだが、どの科目についても共通の視角だ。「科学論」として講座がある場合があるから、これを聞く必要がある。科学的思考のルールを学んでおくと、後になり、紆余曲折や右往左往に時間を無駄に費やすことが少なくなる。

 そもそも、リポートをどう書けばよいかが分かるようになるから、苦労せずに「A+」の成績を取れるようになる。泳ぎと同じで、コツが分かればスイスイ泳げる。

 私は文系の学生だったのだが、その理由は「数学が嫌い」だったことによる。ところが、後になり「物事の理解に数学的思考を避けては通れぬ」ことに気付き、二十台になり独学で勉強した。高校や大学の時と違うのは、「やらされる」意識ではなく「自ら進んで」やったことだ。数学そのものは結局は出来ない部分が多かったが、出来ないだけに「分かりやすく言い直す」「手順を細かく区切る」「結果の意味を普段の言葉で解説する」ことに努めた。そして、気が付いたら大学で社会統計学を教えていた。ちなみに数学自体はやはり大して出来なかったので、「こんな感じで考えろ」という「橋渡し」を述べた。

 さて、学部学生の時に人口学の講座を取ったのだが、その最初の講義の時に、担当教授が開口一番で言ったのは、「人口学は人口の規模と構造、そしてその変動を研究する分野だが、よく分からない部分が多い」ということだ。

 その時は「先生なのに分からないものなのか。人口など数で数えられる分野ではないか」と少しく驚いた。その時の教授(その後「師匠」の一人になった)の言葉の意味が「分かった」のはそれから十年は後のことだ。

 その先生は「規則に従う」要因と帰結を想定した時に、複数の要因間の関りとそれが帰結にどのように働いているかを想定していたのだった。目に見える個々の事象について言っていたのではない。

 そういう「ものの考え方」「合理性」「科学的な思考」を学ぶのは、せいぜい三十歳くらいまでに済ませて置く必要がある。今はまだ分からぬだろうが、いずれ「自分には必要なものの見方」を知る時が来るだろうと思う。

 どうせ必要なら、早いうちにやっておいた方が良い。勉強は学校でなくともできるし、やることになるのだから、進学云々は関係ない。

 学生時代に東南アジアでボランティア活動に従事したことがあるが、その時の仲間(三十台後半)の一人は「高校中退(中卒)」だったが、レヴィ・ストロース(人類学)の研究書を読んでいた。「学び」に「学校」は関係なく、人生に必要かどうかということだ。

 今は頷いて聞くことが出来ぬだろうが、「そんなことを言っていたオヤジがいた」ことを頭の隅に入れて置くことだ。あとは家の中で手の上の銭を眺めるのではなく、外に出て外界を観察すること。どうしても古銭から離れられぬのであれば、博物館や造幣局、鋳物屋、町工場を訪れて見学すると良い。

 若いうちから年寄りと同じことをしていては、器が小さくなってしまう。

 私を含め古銭の愛好家など、道楽に時間を費やす「つまんねージジイ」だらけだ。

 

 この世の害悪を語る言葉に、次のようなものがある。

 「死んで地獄に落ちる悪事は次の順。一に殺人、二に強盗、三が窃盗、四に骨董」

 古貨幣は当然ながら「骨董」の仲間となる。ちなみに「トウ」で韻を踏んでいる。 

 収集など「所詮は道楽」「手の上の金屑に過ぎぬ」だと思えば、むしろ視野が広がる。若者が古銭会やオークションなんかに参加してはダメだ。女子と映画に行ったり、仲間とスポーツををした方が、想像力を増やすし、「ひとの心」を理解する助けになる。そしてそのことが、将来、改めて古銭を考える時に役に立つ。

 古銭など「止めてしまえ」とまでは言わぬが、「片隅に置く」くらいでちょうどよい。早いうちから頭が固まってしまうと、とにかく何でも分類を始める「分類バカ」になってしまう。

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1)大型和同鉄銭(糖度品:敷物) 

 前置きが長くなったが、もうひとつ「兵法」という「学ぶべきこと」が漏れていた。

 「この品は何物か」を探るのは、敵の本陣に攻め込むことに似ている。なら、首尾よく敵を攻め落とすためには、それ相応の体制と手順がいる。

 まずそのためには「外堀を埋める」ことが必要になる。

 この場合は、まずは「状況を掘り下げる」ことになる。

 

イ)鉄瓶敷・釜敷・鍋敷き・土瓶敷の概要 

 用途の似たこれらの品を「実際に使ったことのある」人はもはや少数派だろう。

 かく言う私も、母の実家が築百数十年の古い民家で囲炉裏があったから、そこで見た程度だ。囲炉裏や竈があり、炭でお湯を沸かしたり、煮炊きしていた頃に使用された。

 (これは必ず見に行くこと。「古民家カフェ」で囲炉裏があるところがある。調度品が揃っているとは限らぬが、そのうち当たる。)

 囲炉裏では鼎型の鉄瓶置き、卓上では板製の土瓶敷、鍋敷きを使用していた。 

 用途が似ており、サイズも似ているが、用途によってつくり方が異なる。

 うち金属製品については、概ね次の特徴がある。

「土瓶敷」: 銅や亜鉛製。瀬戸物の底に傷が付くので、鉄製は用いられないことが多い。

「鉄瓶敷」: 金属では鉄製のみ。鉄は熱伝導率が高いので、裏側に三箇所の突起がある。 

「鍋敷き」「釜敷」: 鉄鍋は重量があるためか、概ね板製か布製。鍋敷きは鍋のサイズによる。

 うち「土瓶敷」「鍋敷」のサイズであれば、瀬戸物は銅製、鉄は鉄製を使うのが原則になる。鉄製であれば、「鉄瓶敷」であるケースが考えられるが、鉄瓶敷の場合、裏に突起があることが普通だ。卓との間に隙間を作り、表面が焦げ付かぬようにする意図による。

 例えば『南部藩銭譜』の拓を見て瞬時に分かることは、「これは銅製の品を作るための母型」であるということだ。これは「裏に突起が無い」こと(鉄製用ではない)と「表の山と谷の高さの違いが大きい」こと(母型)による。

 『南部貨幣史』掲載拓は、それより一回り大きいようで、確実に母型のようだ。

 となると、双方とも銅製土瓶敷き・鍋敷きを作ろうとしたものではないか。

 

 質問の品については、「鉄製であること」から「鉄瓶敷」の可能性が高いわけだが、一方、裏に突起が無い。鉄瓶敷では、これまでこの突起が無い品を実見したことが無いので、今のところ「何とも言えぬ」上に「果たして敷物かどうか」という問題がある。

 鉄の敷物の製造は、幕末明治初年に限られたものではなく、その後も、現在に至るまで作られ続けている。敷物の他に「飾り物」という用途でも作られて来たという経緯がある。

 

ロ)素材

 次に素材に移ると、質問の品について分かるのは「砂鉄製ではない」ということだ。

 廃材を溶かして作ったようにも見える。

 

ハ)製作

 仕上げ処理については「銭座(幕末・明治初年)の品とは言い難い」と言える。

 鉄銭は「輪側の処理をしない」ことが普通だ。正確には、「バリ取りのみで鑢加工をしない」ということになるが、これには二つ理由がある。

 ひとつ目は「棹に通して、粗砥を通す」ことも、「鑢で輪側を削る」ことも事実上、出来ぬからだ。「粗砥では研磨し難い」上に、鑢では「せっかく鏨で溝を打ち作成した鑢が一度で壊れてしまう」ことによる。

 寛永鉄銭を見れば分かるが、バリ取りすらもやっていないことが多い。

 一方、そのことを見越して、大型鉄絵銭などを作る時には、砂笵をよく焼き、なるべくきれいに抜けるような作り方をしている。「大迫駒引き」などの輪側を観察すると分かりよい。

 また、仮に輪側を研磨処理するのは、グラインダのような装置が必要で、スプーンやフォーク製造用の輪転機であれば、横に研磨が入れられる。

 これが使われ始めたのは、維新後、かなり後になってからになる。

 もっとも、この品の痕は「母型の線条痕が子に模った」のかもしれぬ。これはこの画像では分からない。

 ちなみに、参考までに「鉄餅」を掲示したが、これは鉄瓶製造所で出来たものだろう。長らく用途が分からなかったが、これは恐らく「余り物をまとめたもの」だ。

 鉄瓶屋で鋳造工程を見学させて貰ったことがあるが、電気炉で溶かした鉄を柄杓のような器具で運び、砂型に流し込んでいた。溶鉄は型に必要な分より多めに作るから、柄杓には鉄が残る。これを再利用しやすくするために、別途、鉄餅型の砂笵を置き、柄杓に余った溶鉄を流し込んだのではないかと思われる(憶測だ)。

 この品は十四五枚ほど同時に出たが、サイズもまちまちで、中には砂笵に手で書いたような意匠のあるものもあった。職人が遊び心で加えたのだろう。

 これを「大正以降の鉄瓶屋から出たもの」だと見なすのは、輪側を処理した痕があることによる。次の再利用を考えてこの形にしており、怪我の防止のためにトゲトゲを削ったのではないか。

 もちろん、ここにもヒントがある。「鉄瓶屋」の周辺を探るべきかもしれぬ。

 腹案が出来たが、これを確かめるべく鉄瓶屋を訪問することが、もはや体力的に出来なくなった。

 

 以上の要素を要約すると、

 「まだ何とも言えない」(類品などを照合する必要がある。)

 「銭座のものではない可能性の方が高い」ということになる。

 さらに、もちろんだが、「何時作られたかは、はっきりとは分からない」

 これは鉄鉱石由来の鉄製品が「今現在に至るまで繋がっている」ことによる。

 また現状で「栗林座製を特定出来る要因は無い」が、鉄瓶敷であれば、鉄瓶屋だけでなく小さな鍛冶屋でも作る・作れるという要素もある。明治期の鍛冶屋製の可能性もあるから、課題が多そうだ。

 私は銅鉄合わせて十数枚の敷物を入手したが、幕末・明治初年頃に遡れるのは一品だけに留まっている。他は判断が付かず、郷里の倉庫に鉄瓶と共に眠っている。

  

 まずは早急な結論を求めることをせずに、ゆっくりじっくりと傍証を積み重ねていくことだ。

 子どもの顔写真一枚を見て、「この子がどのように育てられたか」「親がどんな人だったか」を想像するのと同じで、総てはあくまで憶測に過ぎぬ。

 さらに、物ごとには必ず例外がある。

 製造過程を学ぶことの大切さはそこにある。逆に「この製法で作った」ことが分かっているならば、出来た製品の特長を説明するのは、割と容易にできる。

 子どもからは親はまったく想像出来ぬが、親とその親による育て方を知れば、少しは子どものことが理解しやすくなる。「工程を学べ」と言うのはその点による。

 

 古銭家は手の上の出来銭を見て、これは「どこそれのドータラ」と語る者が多いが、「型」で即座に判別できるケースは必ずしも多くない。いつも記す通り、こと密鋳銭(藩鋳銭含む)では、型分類では勝負にならない。

 それが難しい点で、かつ楽しい点でもある。

 ひとつのことが「分かったような気になる」には、数十年の間、何万枚も見た後の話になる。数千枚程度で「分かった気になる」のは、単純に色んなケースをまだ知らぬだけだ。

 最後に、私はかつての私の師匠とまったく同じことを言う。

 「南部の鉄銭については、未だよく分からぬことが多い」のだ。(続く)

 

注記)いつも通りの殴り書きで、推敲や校正をしない。不首尾はあると思うので、念のためお断りする。