日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎あなたに似たひと、その他

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令和三年十二月十三日撮影

◎あなたに似たひと、その他

左肩が重くなる理由 

 十三日の画像で、少し目についたのは、自分ではなく若者の肩に被さっている「顔」のようなものだ。

 当初はガラスの継ぎ目化と思っていたのだが、継ぎ目は少し離れた左の方にあった。

 もちろん、こういう「顔」は「気のせい」であることの方が多い。

 室内の方が明るいので、その室内の何かが陰影の影響で「たまたまそう見える」ことがある。

 黒い点がふたつ並んでいると、多く人はそれを「眼」だと認識しがちだ。

 

 「顔が二つに写ってら」とは思っても、「単なる錯覚かもしれぬ」ので、本来はそれほど気にならない。

 だが、その顔が床屋をしたばかりの短髪で、サングラスをしたように見えるのであれば、少し話は別だ。「ドッペル君」である可能性があるということ。

 (「ドッペルゲンガー」ぽい人影が時々出るので、最近は「ドッペル君」と呼んでいる。)

 幽霊はとかく「呪い」とか「祟り」などという怨念とのセットで語られることが多いが、そんなケースはほとんどない。実際に存在しているが、何百何千と同化合体を繰り返した果ての者でないかぎり、「起きない」のだ。

 だが、「ドッペル君」はそんな悪縁(霊)よりはるかに怖ろしい。

 春の到来を告げるのが鶯の声ななら、「ドッペル君」は「死の到来」を告げる存在だからだ。

 コイツが見えたら、極力、自分の傍に来ぬように手を尽くす必要がある。

 

ドッペル君ではない 

 そこで念のために様々な角度から観察したが、やはり私の分身ではないようだ。眼窩の窪んだ女、または男の顔に見える。若者のマスクの端に重なっているので見難いのか、あるいは黒いマスクがあったので姿が浮かんだのかは分からぬが、「何か」が重なっているかもしれぬ。

 あの世の者は赤外線に反応するから、周囲が暗い方がむしろ見え易い。

 幽霊と言えば「夜」に付きものの存在だが、それは「夜の方が検知しやすい」ことによる。

 夜間は日光が放つ赤外線が消え、それが者に反射して生じる熱も下がるから、幽霊が浮かび上がって見える。要は相対的な関係による。

 

誰の身にも日常的に起きている

 仮にこれがあの世の者だったとしたら、若者に影響はあるのだろうか。

 その答えは、「今のところ気にする必要はない」だ。

 人の心に「幽霊が寄り付く」という事態は、ごく日常的に起きている。その時その時の心境により、それと近い感情を抱えた幽霊が寄り付くのだ。そして、人の喜怒哀楽の感情をさらに増幅させる。

 自分ではない誰かが自分の気持ちに入り込んで影響を与えているとなると、幾らか気持ち悪い話なのだが、だが多くの場合はそこまでだ。

 人の方が気分を変え、気の持ちようを転じれば、幽霊との間の接点が無くなってしまう。

 「努めて明るく考え、前向きに生きる」ことで、悪縁の方から去って行く。

 

「念」の力

 時にはしつこい者も居るわけだが、その悪影響を認知したら、初めて「遠ざける」必要が生じる。

 まずは人間に対するように「丁寧に頼む」ことだ。

 自分には「同化する気はないし、助けられぬので離れてくれ」と頼むわけだが、割合とこれで去って行く。

 その次は、「傍に来るなと命じる」ことだ。「ここは自分のテリトリーだから入って来るな」と宣言することが圧力となり、悪縁を押しやる。

 この効果を高めるには、「念」の込め方を練習していると役立つ。

 祈祷師が悪縁の除去のために、祝詞真言を唱えるのは、言葉自体に力があるのではなく、念を送っているということだ。「念」は「意思」に近いのだが、エネルギーや力を有する。

 一般人であれば、日頃よりお経を唱え、救済を祈願していれば、念の力が強くなる。

 神社や仏閣で祈願や頼みごとをする人が多いと思うが、「念」はそれを強くしたものだ。

 

 山ごもりをして、集中できる環境を作り、そこで数か月修練すると、誰でも「紙カップの中のサイコロの目が分かるようになる」と言う。これは眼で見ているのではなく、念を反射させている。

 失せものを見通したりするのも、「念」の透視力になる。

 勘違いする人が多いのだが、「念」は「霊能力」とは無縁の現象だ。(そもそも「霊能力」などというものはない。)

 

 だが、そういう「念」の力を育てるには、長期間に渡る修練が必要だ。

 一般人は加持祈祷に費やす時間を持ってはいない。

 それなら、別の手立てが必要だ。

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令和二年一月二十七日撮影

幽霊は物理的な存在

 誰にとっても、単ですぐに応用できる手立ては「ご神刀斬り」だ。

 一年半ほど前、神殿のガラス戸に、まるで「コロナ禍の到来を予告するかのように」防護服のようなものを着た男が映っていた。

 周囲の四方五十㍍以内に人はいなかったから、紛れもなく「説明のつかぬ人影」だ。

 ひと言で「幽霊」ということ。

 この男は、ガラス戸の境目の左右に映っているのだが、角度が違っていたらしく二重映りになっている。

 そのことで、「この男が物理的に存在していた」ことが分かる。

 気体なのか、ひとが認知できぬ性質のものなのかは分からぬが、光を反射する物理的存在であるということだ。

 物理的な存在なのであれば、当然、物理的な対処が有効だということになる。

 

ご神刀斬り

 「ご神刀斬り」は昔からあるお祓いの作法のひとつだが、神棚に刀を備えて置き、悪縁との関りを断つ時にそれで自身の周囲の空気を斬る。

 傍に寄り付いている悪縁を「断つ」という意味があり、それは象徴的な意味でなく物理的な行為だ。

 わざわざ日本刀を備えたりする必要はなく、金属の刃であれば、小刀でモ彫刻刀でも良い。

 未使用であることと、信仰を持つことが前提になる。

 天照大御神「太陽」信仰であり、宗教の別は無い。各々の信仰上の「太陽神」に刀を備えて置くと、いざという時に役に立つ。

 

 老病死は必然で、人は必ず死ぬし、死が迫ると様々なものが寄り付く。

 私は既に本来の寿命を終えており、今はあの手この手の手立てで死期を延長させている状況だ。

 それもあって、外に出る度に色々な者が寄り付く。

 

「お迎え」の話

 幾度も書いたが、母に「お迎え」が現れたのは、直接、母の許にではなく父の前だった。

 父は少しく認知症が始まっていたのだが、ある時、父が一人で家にいた時に「ピンポーン」とチャイムが鳴った。

 扉の前に立っていたのは「若い男だった」らしい。

 その男は父に「そろそろ※※さん(母)を連れて行きます」と告げた。

 父は驚き、てっきり「自分の妻に愛人が出来た」と思い込んだ。

 父の前にその男が現れたのは三度だが、その都度、家族親族で騒動になった。

 私は遠方に住んでいたので、そのことは知らなかった。

 家族は皆「父はもうボケた」と見なした。

 

 母のがんが再発してから、私はその話を聞いたのだが、時期を振り返ると、最初のがんが出来た時、またそれを切除した後、それが再発した時という、節目節目の時期にその男が現れていた、

 その時、初めてその「若い男」が「お迎え」の一種だったと気付いたのだが、その時には母の肝臓の95%以上ががん細胞に冒されていた。

 何事にもTPOがあり、然るべき時機を逸すると、習性も変更も利かなくなる。

 せめて悪縁が寄り付かぬようにと、部屋の各所に少しずつセージを備えたのだが、母の亡くなる三か月くらい前になると、母本人が「匂いがきつくて耐えられない」とそれを片付けさせた。

 そのことで私は「来るべき時が近づいた」と悟った。

 今にしてなお、痛恨に感じるのは、「若い男」が現れた最初の方であれば、母の死期を遅らせることが出来ただろうことだ。

 普段は見逃しがちな「ささいな変化」に気を留め、迅速に対処すれば、ある程度定められたコースを改変することが可能だ。

 

 今の私が対処すれば、きっと母は今も生きていたと思う(確信だ)。

 ただその時には、まだ気付かなかったし、対処法も見えてはいなかった。

 残念だが、そういうのも「巡り合わせ」だと思う。

 また、私のように「延命は出来ても、苦しみが長引く」こともある。