◎夢の話 第1K8夜 雑踏
夢の多くは、過去の記憶と、それに付随する感情を整理整頓しようとする脳の活動だ。就眠中は前頭葉の多くが休んでいるが、思い入れのある記憶部分については活動を止めない。そこでそれを鎮めるために、さらなる記憶を呼び覚まし、かたちを変えて整える。
自身が何に執着し、心を傾けているかは、夢の内容を解析すれば分かる。
だが、「記憶とそれに伴う感情を整理する」ための夢ばかりではなく、ごくわずかだが、まったく脈絡のない内容のこともあるから、それを探るためにいつも夢の内容を観察している。
これは三十一日の午前三時に観た夢だ。
我に返ると、俺は街角に立っていた。
駅の近くらしく、高架線が見える。鉄道に沿って雑多な店が並んでいるから、都心のS橋付近の景色に似ている。
俺は人を待っていたらしい。
すぐにその目当ての女がやって来た。
身長が160㌢前後、年恰好は三十五六といったところだ。
道に立って待っていた筈なのに、俺はこの女が誰か分からない。
「この女は誰だっけな」
頭がぼんやりしてよく考えられない。
すると女の方が俺を促した。
「じゃあ、行こうか」
姉御口調だ。それもその筈で、今の俺はまだ三十に届いていない年恰好だ。
女と一緒に歩き出す。一体どこに行こうというのか。
女が「今日は大丈夫だからね」と言う。
何が大丈夫なのか。
女の顔を観るが、顔の中心がぼんやりしていてよく見えない。
疲れ過ぎて、ものがよく見えなくなった時の感覚に似ている。
だが、何となく「きれいな女性なんだな」と分かる。
年齢よりも七八歳は若く見える。
勝手が分からぬまま歩いていると、女が俺の左手に手を差し入れて来た。
そのまま手を繋いで街を歩く。
「随分久しぶりだよね」
と言われても、俺はこの女が誰だか、まったく思い出せない。
「前にこの女と結婚していたことがあったっけ?」
何だか親密な関係だったような気もする。逆にそうでないような気もする。
結婚、離婚した相手なら、もう少し覚えていそうだが・・・。
女の方は当たり前のように俺を先導する。
「ワインを買ってあるからね」
ここで俺は少し思い出した。
「今から女の実家のマンションに行くのだな。実家と言ってももう親はいない。ダンナの家とは別に、この女は自分のマンションを持っているのだ」
えええ。俺って、コイツの愛人、というか間男なのか?
もう一度顔を向けて女を見る。
しかし、先ほどと同じで、顔の中心にもやもやと雲がかかったように、造作が分からない。
おいおい。どうなっているんだよ。
思わず目を擦る。
がやがやと人の話し声が聞こえる。周囲の人たちが得手勝手に話しているのだ。
この国では、公の場所では声を潜めるから、まるで外国にいるようだ。
駅の改札が近づく。
そこには雑多な人たちがたむろしていたが、その人たちにはいずれも顔が無かった。
顔の無い人たちが声高に話しているのだが、誰かを相手に話しているのではなく、ただ自分の思いを叫んでいるだけ。
わやわやという声が周囲に響く。
ここで俺は気が付いた。
「これは夢だな。この街は現実ではない。俺は夢の中にいるのだ」
しかも、これは俺自身の夢ではないぞ。
ここでぷっつりと覚醒。
「女」は、昔、勤め人だった頃に同僚だった人だ。
一度、「交際しろ」と匂わされたことがある。亭主持ちに堂々と言われると、さすがに退く。美人で聡明なら、余計に退く。
夫婦とも優秀で、ダンナには肩書があるから、逆に不満が溜まっていたのかもしれん。
当時は気付かなかったが、職場にそういう風潮があったそうで、職員の多くがパートの女性と付き合っていた。双方とも配偶者ありだ。それなりに陰でゴタゴタがあったとのこと。
ちなみに、自慢話でも何でもなく、その時は即座に断った。火中の栗は拾わず。
据え膳は黙って食う性格だが、後片付けの方が面倒臭い。
何となく、「女」は死んだか、死にそうだという気がする。今はもういつ死んでもおかしくない齢だからもはやフツーの話だ。こういう直感はよく当たるのだが、死んでから私に関わるのは止めて欲しい。
死にそうになると、何となく私を思い出す人がいるのは、私が常に「あの世に近い」存在だということ。夢の年恰好なら、そのほんの数か月後に私の心臓が止まる。
夢はひとの知能が働かず、感情が中心になる世界だから、「あの世」によく似ている。実際、あの世に近いようで、幽霊が人の心に入り込むステップとして夢を利用することがある。心を揺らし、感情を波立たせて、その隙間から入り込む。