日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎障りが重い

障りが重い

 今は体調の「底」で、連日寝たり起きたりの状態だ。人事の方も躓きが多く上手く行かない。

 これが歴然と始まったのはいつからかと考えると、やはりあの稲荷の祠にそれと知らずに近寄った時からだと思う。

 人生の各所において、稲荷に近づいた時にはあまり良いことが無い。もちろん、稲荷さま自身ではなく、その周囲に居る者がもたらすものだ。

 普通の者なら何ということもないことなのだが、私は違う。

 

 自分の抱えている業のようなものは「あの世の者から見られてしまう」ことだと思うが、よくよく注意していないと「関わり(因縁)」が出来てしまう。

 このことに気付いたのは割と大人になってからで、地域の神社当番で稲荷神社の境内を掃除に行くと、「立っていられぬほどの具合悪さ」を覚えた。これがその神社を訪れる度に起きるので「おかしい」と気付いたわけだ。

 それが四十歳くらいの時で、思い起こせば、それより前から同じことが起きていた。

 それまでは単にそれと気付かなかっただけ。

 仮に伏見稲荷に参拝したら、赤い鳥居を潜る途中で倒れると思う。

 

 人間でもどうしても「そりの合わぬ」者はいる。考え方生き方の土台が違い、理解出来ないから、つい悪意をもって相手を眺める。相手の振る舞いから苛立ちを覚えるのと同様に、自分も相手に苛立ちを与えているかもしれぬと考え、双方が近づかぬことが肝要だ。仲良くしようと努力する必要はなく、衝突せぬために「接近しない」ということだ。

 

 前回そこに稲荷さまがいると承知していれば近づかなかったが、草叢の中にあり、何もしるしが立てられていなかった。それと気づいたのは、真正面に立った後だった。

 幾度も書いたが、その後で、頭に「蜘蛛の巣が掛かった」ような感触があった。

思わず手で振り払ったが、何もない。

 あれはあの世の者の「手」だったと、今は確信している。

 

 こういう時に、最もダメなのは「障りだ」「祟りだ」と騒ぎ過ぎぬことだ。この世とあの世を結ぶのは、そういう要素だけではなく、そもそも相互に独立した存在だから、敬意を示しつつも、因縁に囚われぬことが重要だと思う。

 いずれ稲荷さまとの和解が必要だから、もう一度、稲荷に行き、「敵視するつもりはない」と伝えようかと思う。

 ま、「蜘蛛の巣」は稲荷さま自身ではないから、戻って来られなくなるリスクもある。 

 

 ひとそれぞれ境遇は違うので、こういうのに文句を言っても始まらない。粛々と、務めるべきこと、果たすべきこと、求められていることを進める。

 いつも思うが、こういうことに配慮しなくてよい生活が最も望ましい。死期が近づけば、誰でもあの世のことを考え、実際に身近に感じるようになる。その直前まで、あの世を感じずに過ごせるほうが穏やかに生きられると思う。

 前回の出来事の直後には数々に異変が起きたが、もはや画像を掲示することが出来なくなった。現実の問題として立ち塞がっているので、当たり前のことだ。

 

追記)その反面、あの世の動きを感じ取り、先手先手で手を打っているから、今まで生きて来られたという側面もある。

 私など、十年も前に死んでいてもおかしくない立場だ。

 何が良くて、何が災いなのかは、よく分からない。

 今はある意味「鈍感」で「ごく普通の人」だと思うが、これまでそういう経験が無いので、少し不安を覚える。いつ危機が来るのかを察知できない。