日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「銭箱の雑銭より」

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銭箱の雑銭

◎古貨幣迷宮事件簿 「銭箱の雑銭より」

 家屋の解体で不要な古物が出ることがあるのだが、従前はこれを扱うのが「買い出し」と呼ばれる人たちだった。解体業者の知り合いで、現場に行き、めぼしい品を引き取って来る。

 これを自分で売ったり、その地の骨董会に出したりする。これが「買い出し」の生業だ。

 よって、旧家から出たばかりの骨董・古美術品等は、解体業者や「買い出し」を通じて手に入れると、「ウブい」品を入手出来る。

 だが、もちろん、日頃より良好な関係を保っていないと、複数いる買い手の中から自分を選んではくれないので、とにかく仲良くすることが基本だ。

 顔を見れば何かしらを買い、相手の商売を支えることが大切だ。

 ここを疎かにすると、いざという時に自分の電話番号を思い出しては貰えない。

 自分にとって損か得か、必要か不要かだけではなく、あるいはそれとは別に、相手にとって損が出ぬように配慮する姿勢があると、先方もそれを理解するようになるから、融通して貰えるようになる。

 骨董店では「一見の客」がどんなに偉そうなことを語っても良い品物を見せては貰えない。何年も付き合って、初めて奥の金庫から「こういうものがあるのだが」と出してくれるようになる。ま、入札やネットでばかり品物を得ていると、その品が出た状況に関する情報が得られない。結局は「手の上の銭」の話だけで、奥行きが広がらない。

 時々、「どこからどうやって出たかが重要」と書くが、「誰から入手したか」という意味ではない。「どういう状況だったか」という意味で、どういう家のどの場所に、何と一緒に仕舞われていたか、どういう使われ方をしていたか、等の話だ。

 

 やや脱線したが、「買い出し」や「骨董会」ルートで、時々、「銭箱入りの雑銭」が出ることがある。何時入れられたかは様々で、昭和三十年くらいより以前なら、どの時期に入れられてもおかしくはない。寛永銭が現行貨だったのは戦後の一時期までで、貨幣単位として小さかったから、藁・縄通しで括られた。これを仕舞っておくのに、木箱や銭箱が便利だから、それに入れられた。

 もしこういう銭箱を見る機会があったら、最初に点検するのは箱の横や裏側だ。

 そこに持ち主の名前が書いてあれば、概ね商人のもので、書いてなければ百姓家のものになる。ま、「※※屋」などの屋号が書いてあれば商家のものだ。

 もし商家にあった銭箱なら、迷うことなく「買い」だ。値段の高い安いは関係なく、落とすまで競るのが基本になる。

 前にも記したと思うが、商家は銭の出入りが多い。日常的にお金を扱っている。

 私も商家育ちなのでよく分かるが、商人は手触りのおかしなお金を得ると、それを必ず避けて置く。私の家にも小さい木箱がレジ下に置いてあり、古銭や外国貨が紛れ込むと、そっちにハネて置いた。使用可能な旧札も同様だ。

 こういうのは、そのままずっと残っていることが大半で、銭箱にもそれが反映されている場合がある。

 

 所沢に珍品堂という古道具兼買い出し業者がいたことがあるが、毎週顔を出し、必ず何かを買い、その都度、「古銭が出たらよろしくね」と伝えていた。奥さんが店番をしていることが多かったので、お菓子を土産にしたりする常連になった。

 何年かが経つと、これという品を取り置いてくれるようになったのだが、その中で「商家の銭函」が出た。この話は前に書いたので省略するが、蔵出しで出たばかりの品だ。何せ値段が高い。銅銭が枚単価で五十円前後、鉄銭でも二十円超だ。

 これも幾度も書いたが、雑銭は「出たて」の品の方が値が高い。解体屋から出てすぐには三十五円なら安い方で五十円勘定でも当たり前。これが地方都市に出て、東京大阪に達すると、最も値が安くなる。これは途中で母銭等、めぼしい品が消えるためだ。ネットも同様。手に入りやすいのは、所謂「見たカス」になる。

 わざわざ取り置いて貰った品だが「ちょっと値が強い」と思いつつ手に取って見ると、最初に見えたのが永楽銀銭だった。ちなみに、当たり前だが、裏にきちんとブツブツの砂目が入っている本物だ。(他に慶長やら寛永銭の母銭やらがやたら出た。)

 天保銭が千円くらいだったが、こちらも本座が見当たらない。水戸が多かったが離郭も数枚あった。

 チラ見の後、即座に引き取ったが、その後、半年くらいは古銭会に出す品物に困らなかった。

 ちなみに、鉄銭は不要だったのだが、残したら先方の滞貨になるし「気が悪い」ので全部引き取った。「気が悪い」とは、店主は一括で買って来ているのに、こっちは良さげなものだけを拾うという意味だ。一括で仕入れた品は一括で買い取るのが礼儀だ。

 こういう配慮を怠らぬと、必ず「次」も来る。

 ただ、先に銅銭を数千枚買っているので、こちらは@十円に負けて貰えた。

 こっちはさすがに「千」ばかりだった。この辺は古銭について通じていない業者さんでもよく知っている。一文鉄銭は二千枚も無かったから助かった。

 当四鉄銭なら喜んで買うのだが、一文鉄銭はほぼ背千になる。

 ま、差し引きは「最高の面白さが得られた」ということ。何せ銭箱に玉塚天保銭が入っていた。要は大正から昭和戦前までの期間で「放り込まれていた」ということだ。

 

 この経験があったので、以来、銭箱をいつも注意して見ていた。

 すぐに時代が変わり、古道具屋や骨董店が姿を消し始める。

 ネットオークションの出始めの頃に、鹿角の業者が銭箱入りの雑銭を出品していたのだが、内容物がよく見えない。ここはまだ誰もが不慣れだった。

 だが、経験と直感で「商家」の「蔵出し」だと悟ったので、落札まで追うことにした。値段は関係ない。損得で動いているわけではなく、「きっと面白い」だろうからそうするということ。

 ここは勝負事と同じで「行く」と決めたらとことん「行く」ということだ。

 繰り返しになるが、こういう時には値段は関係ない。

 

 小汚い雑銭に見えたせいか、銭箱は割とすんなり落ちてくれた。

 枚単価で35円超に達していたから、皆が損得で考えて遠慮したということだ。

 こちらの目当ては密鋳銭だが、これは画像では分からない。

 もちろん、この時の雑銭も「商家の銭箱」で、記事を書くネタには困らぬほどの材料が出来た。

 と、以上は総て前置きだ。

 

 冒頭に掲示した画像の中核はこの銭箱から出た品になる。

01 マ頭背盛 と 02 山内濶縁(偶然マ頭)

 「背盛」はコ頭通だが、たまたま欠損が生じ、マ頭に見えるものが時々ある。 

 02の方はそれで、通用銭の鋳造の際にたまたま生じたものだ。(ちなみに、濶縁の手で、これ自体は見栄えのする良い品だ。)

 だが、01のタイプは同じ型の母銭が存在している。薄く、白銅質の金質なので、閉伊三山、たぶん大橋のものだと思うが、銭径の縮小度がさほどないので、少し驚かされる。閉伊三山の型は「小さく・薄い」が基本だ。

 この母子を揃えたかったが、蔵主が一人で存在も一品のみ。さすがにこの母銭を譲っては貰えない。母銭の選り出しは、まずもって無理な話だろう。鉄銭の方は数万枚も見れば拾えるかもしれぬ。

 

03 山内異足宝 と 04 湯口の大きな異足宝

 いずれもこの銭箱より出たもの。鹿角なので複数あってもおかしくないが、四五枚は出たと思う。異足寶は銭径の配分比が決まっているので、選り出しは簡単だ。かつ足が見えずとも「同じ手」だというのもひと目で分かる。

 山内座は大鋳銭座で、母銭を大量に作ったから様々な変化が生じる。その中のパターンを覚えれば、面文が見えなくとも輪幅だけで判断できる場合もある。

 さて、この時の検分で、最も衝撃的だったのは、04の「湯口が大きく見える異足宝」だ。

 銭種が「背盛異足宝」なので、山内座のものであることを確定できる。しかし、この品は異様に湯口が大きく見える。

 湯口がバカでかいのは「称浄法寺銭」だけで、これは少なくとも明治初中期になる(仕立て銭)。

 「称浄法寺銭」に鉄銭が無いのは「鉄銭を作る時代を過ぎていたから」ということ。 

 「湯口を大きくしたのは、そもそも切り離す意図が無かったから」ということ。

 鉄銭をお金として鋳造したのは明治四五年までで、それ以降は作る意味が無くなった。だから「称浄法寺銭に鉄銭は無い」。

 それらすべての見解を、この鉄銭一枚が総て粉砕する。湯口の大きな枝銭を「明治初年頃に作っていた」ということになると、諸説が悉く崩れてしまう。

 称浄法寺銭としては「湯口の大きな仰寶鉄銭」が一枚か二枚見つかっていると思うが、これは後になって出て来たつくりだ(平成浄法寺)。砂目がイマイチだし、信頼は置けない。

 ただし、鹿角の完全ウブ銭の中から出現したとなると話が別だ。

 これが称浄法寺系の鉄銭なら、あなたも私も、そして地元の人も含め、古銭界全般が「眼の利かぬ者の集まり」ということになってしまう。

 だが、これはまだ結論は出ていない。湯口が大きく見えるが、「たまたま大きく割れた」という線が残っているからだ。バリが広く出て、それが割れるとこんな風にも見える。二枚目が出るのを十五年以上待っているが、結局は出て来ない。

 もし湯口を大きく広げた鉄銭があれば、この製造者はかなりの愚か者で(銭の役に立たない)、銅銭なら鏨で落とせても、鉄銭に同じことをすれば割れてしまう。

 ちなみに、鉄銭は「思い付き」では作れない。それっぽく作るには砂鉄を溶かす必要があるが、湯温を調節するのが難しいし、当時の出来に製作を引き寄せるのは、一層難しい。

 怖ろしいのは、その「理にかなわぬ鉄銭」が存在する可能性が幾らかあることだ。

 繰り返しになるが、もし鉄銭群が出てくれば、過去の認識を総て捨てる必要が生じる。(これを記すと、必ず「作ってみる」者が出て来るので、こういうのは言わぬ方が良いのだが、既に卒業する身なのでどうでも良くなった。)   

 

 05から07は品物としてはがらくただ。05はゴザスレ風に輪を削り、裏面を削ぎ落してある。密鋳鉄銭用の改造母ということ。

 06は面背を研ぎ、とりわけ裏面は総て削ぎ落してある。銭を削る目的としては、職人が「銅材を得る」というものがあるのだが、半分をすっかり削るのは、厚さ調整のための「貼り合わせ」を狙う意図がある。

 貼り合わせて厚さ(=重量)を調整し、面背文を整えるという工程に進むわけだが、これは不出来だったので、ここで止めた可能性がある。

 07は白銅質。銭箱から出した時には純白色だったが、時間の経過と共に少しずつ変色して来た。

 

 08から10は小型化されるケースだ。

 08の猿駒引きは、輪だけを削った銭をよく見かけるが、これは削った後で鋳写したケースになる。背面の「寶」の字が痕跡だけ残っていることで分かる。

 09はおそらく題目と思われるが字面が判然としない。地金が違うので何とも言えぬが、目寛見寛座の形態に近くなっている。

 10は印判銭。銭径が小さく、配分比が変わっているので、新たに木型の印判を起こし、これを砂型に押して作ったようだ。

 11の鉄の念仏銭は10との比較用に掲示したもので、普通サイズの念仏銭を小さく鋳写したもの。

 縮小度が著しいわけだが、軽米から目寛見寛座の範囲までの可能性がある。

 

 12は仰寶銅鋳の中で最も存在数が多いものだ(母銭よりは少ない)。製作が整っているところを見ると、恐らくは数万枚もしくは数十万枚規模で鋳造している筈だ。一銭種で数十万枚となると、全体では何トンかの銅素材を調達したことになる。この時期に盛岡藩で稼働していたのは、事実上、尾去沢しかなく、かつ、銅山手天保銭と製作が酷似していることから、私は山内座の初期のものではないかと見ている。

 一番大きな要因は「銅材の調達」で、小吹の銅密鋳銭はここまで製作が揃ってはいない。生産体制が整っていないと、製品の質を揃えることが出来ないのだ。銭の密鋳で重要なのは、専ら資材の調達で、人手はその次の要件になる。うち金属素材と木炭が最初の壁になる。

 13は12の比較用に掲示するものだが、明らかに製作が違う。

 面背の研ぎが強く、銅質の配合も若干異なる。

 研ぎが強いので、背径の配分比が変わり、内輪が詰まっている。

 鋳銭技術の上では、踏潰の手法に近くなる。

 風貌も少し似て来るわけだが、これはいわゆる延展手法で、銭の規格を揃えるために厚さを調整したものだ。面背を研いで薄くし、次に面背文を削って整える。

 こう記すと、すわ「踏潰の仰寶では」と考えるのは、分類志向に陥っている性癖(病気)によるものだ。「銭を銭として整える時に考えることは同じ」で、場合によっては「踏潰の職人が参加したかもしれぬ」と想像する方が無難だ。

 密鋳銭では型分類などどうでもよく、「何を目的に、どういう手立てを選択したか」の方が重要だ。密銭の目的のひとつは、「誰もが普通にお金として使えるものを作る」ということだ。きれいな品や変わっている品を有難がるのは、後の世の好事家だけ。

 

 さて、「今日のこの一枚」となると、やはり「湯口の大きく見える背盛異足宝」ということになる。ただの見すぼらしい鉄銭だが、資料的に爆弾ほどの意味を持つ。

 

 注記)いつも通り、推敲や校正をしない一発殴り書きになる。不首尾は多々あると思うが、体力的に致し方ない。ただの雑感というように受け止めて貰いたい。

 

 追記)珍品堂では、数度、和同が店頭に出ていた。いずれも複数枚だったが、「どうせ本物ではない」と見て、手にとっては見なかった。

 外見も出土銭だったが、「今時何で和同の出土銭が出るのか」と思ったのだ。

 ところが、後で収集の先輩に聞くと、埼玉で数十万枚の和同が発掘された時に、新聞を見た人の中には、夜中に発掘現場に行き、幾枚かを掘って来た人がいたらしい。

 「掘って来た」は要するにドロボーをした、ということ。

 さすが、殺人・強盗・詐欺・骨董(古銭)と、悪人の序列に居並ぶ人種だ。

 それなら話がだいぶ変わって来るが、しかし、その頃は、コイン店で後出来の和同ばかり見ていたので、私は和同自体を信用しなくなっていた。

 ここは本物だけを見ていれば「それと同じかどうか」で、それなりに判断出来る。

 偽物にはそれらしく作った品があるから、迷いが生じ、結果的に本物を逃すことにもなる。この時はせめて手に取って見ればよかったと思う。

 逃した魚は大きく感じるが、「文字が大きかった」ような印象だった。ま、それも「見なかった理由」の一つではある。

 だが、当たれば大字だ。これぞ勝負すべき時で、何を迷うことがある?

 高い安いは後から考えればよいことで、行くべき時には「行く」のが鉄則だ。

 もちろん、偽物も多いから、しくじることもあるわけなので、経験で状況を見極める目を育てる必要がある。