◎古貨幣迷宮事件簿 和同開珎の思い出
幾度か記したが、東京都下、山手線沿線の某駅の前に「Oコイン」があった頃の話だ。
Oコインの店主は、気さくなオバサンで、地の利もあったせいか、いつも古銭が山盛りだった。二十台の頃、一時期、私は後楽園の研究所に勤務していたが、週末には帰路、必ずOコインに寄り、古銭を眺めて数時間を過ごした。
また、当時は出張が多く、月に数度は全国を訪れていたので、そのついでに古道具店に寄りめぼしい古銭を買って来ては、Oコインに売り渡していた。
その頃はまだ地方に古道具屋もコイン店もあったので、何かしら買い物売り物があった。バブル直前の頃は、それこそざくざくと買えたし、売れた。
今とは状況がまるで違い、まさに古き良き時代だ。
その頃、金曜の仕事帰りに店に行くと、オバサンがビニール袋一杯に入った古銭を検分していた。見れば青錆だらけの小汚い銭で「バリ物」だと言う。
東北の知人のコイン店が閉店することになり、「閉店セール(もしくは在庫処分)を手伝うために買い受けて来た」のだという話だった。
その「バリ物」は、ほぼ北宋銭主体の出土銭だった。
「自分ならこんな品など到底見る気がしない」と思っていたが、オバサンは一枚一枚丹念に見ている。
「こういうのはバカに出来ないんだよね」
銭同士がくっついた出土銭で、しかも中国銭ばかりだ。コイン店の品だから、当然、散々、「見たカス」で当たり前だ。
オバサンは、餞別代りに一枚十円見当で引き受けて来たらしい。
私なら七円でも買わない。実際、古銭会の買い入れに収集家の所有していたバリ出土銭を売りたいという話が来たが(60キロくらい)、さすがに断った。
業者なら利益が出ればそのまま売るが、収集家の出す品はそれこそ「見たカス」なので、何万枚のゴミ処理に付き合ってはいられない。実際、その当時、出土銭が混じると売れ行きががたんと下がるのでこれを除外し、神社やお寺の隅に撒いていた。
時々、お寺の境内の但し書きに「古銭を投じないでください」と書かれているが、もしかするとあれは私のせいではないかと思う。既に東日本の神社やお寺に五千枚以上の古銭を撒いた。もし境内の隅で古銭を拾ったなら、その犯人はきっと私だ。
さて、本題に戻る。
店頭で別の古銭を見始めたのだが、それから十五分もせぬうちに、オバサンが「あった!」と声を上げた。
「ほら、和同だよ」
オバサンが示した品を見ると、紛れもなく和同開珎で、他の品は青錆のクズ銭なのに、その一枚だけ割ときれいだった。
「状態が悪いのを誰も見ようとしないから、案外残っていたりするもんだよ」
ひと袋二千枚のクズ銭を検分し、和同を拾えるなら申し分ない。
見た目の印象で、人も古銭もバカにしてはならんのだと、この時思い知った。
まだ話の先がある。
バリ銭の袋はもう一つあったが、Oコインのオバサンはその日の夕方のうちに、もう一枚の和同を選り出した。
わずか二時間も経たぬ間に二枚の和同を拾ったわけだ。
「餞別代り」の善行で、オバサンにツキが回って来ていたのか、そちらも出土銭とは思えぬくらいスッキリした状態だった。当たり前だがショーケースのガラスの上に、その和同はきちんと立てられた。
正直驚いたので、私はオバサンに「おみそれしました」と頭を下げた。
何事も基本が大事で、収集の道ならば、雑銭を丹念に見る姿勢を忘れてはならないと痛感した。スポーツでも基礎練習を怠れば、すぐに壁に当たり、以後、上達などしない。
しかし、その一方で、バリの和同を見た瞬間、何か「憑き物が落ちた」感覚を覚え、その当時、五枚くらい所有していた自身の和同を全部売り払った。
所詮はコイン業者から「金で買った」品だ。あのバリ出土銭を検分することで得られる知見には及ぶべくもない。
持ち金を自慢するために等しいコレクションなど、何の価値も意味もない。(もちろん、あくまで自分自身についてのことであって他意は無い。ひとの考えはそれぞれだ。)
さて、オバサン夫婦が長野に帰ることになり、Oコインが閉店してからニ十五年以上は経った。
その後、連絡が途絶えたが、長野は骨董の出る土地だから、きっとその後もオバサンは楽しんでいたに違いない。
昭和の末から平成の一時期には、地方の古道具店を訪れると、どこも古銭が山積みだった。活気があるから、今よりも値がだいぶ高かった。
今はコロナの影響もあり、盛んに逆回転中だ。
もはやあの時代には戻ることはないと思う。