◎夢の話 第1K14夜 頬ずり
二十三日の午後十一時に観た夢です。
病棟を出ようと歩き始める。
出口の入院患者用のスペースに差し掛かると、そこにいたのは、つい十日前に更衣室で挨拶をした男性患者だった。
年の頃は六十台後半だ。いわゆるアラ七十に近い。
十日前には普通にしていたが、今の顔は紫色だ。
「あれから具合が悪くなったのだな」
あまり見ては失礼なので、顔を前に戻すが、去り際にまた見てしまった。
すると、その患者の顔のすぐ近くに女の頭があった。
ベッドに寝ているのは実は二人だった。女は患者の左側にいたが、患者の首に手を回ししっかりとしがみついていた。
これまで幾度も見て来たが、この女は紛れもなく、ひとに寄り付く死霊だった。
死に間際の者に寄り付くから、「お迎え」の一種なのだが、しかし、その目的は死に行く者を幽界に迎え入れるためではなく、我が物にするためだ。
女が俺の視線に気付き、こっちに目を向ける。
「これはわたしのものぞよ。お前は手を出すな」
そんな声が聞こえる。
ここで覚醒。
この短い夢を小一時間の間に繰り返し六七回は観た。
ここで気付いたのは一年と少し前の神社の写真だ。
ガラス窓には、参拝する男性の後ろにしがみつく女の顔が映っていた。
今の状況はあれとほとんど同じだから、あの後、あの参拝客は無事だったのかどうか。
病気の気配がなかったから、もしかすると、不慮の事故や事件が待っていたかもしれぬ。
重い持病を持つ七十歳の患者ならともかく、四十かそこらの健康な体なら、死霊を祓う術は幾らでもあっただろうと思う。
だが、寄り付くには寄り付くなりの理由がある。
第三者が手を出して、事態をこじれさせるよりも、本人が自身の状態に気付き、自身の感情や振る舞いを正すことが重要だと思う。
まずは、世間的な常識を疑ってみることからだ。
「死ねば終わり」ということを多くの人が信じたいだろうけれど、死は通過点で、その後もしばらくは自我は残っている。そしてその「しばらく」の期間は、生きている間よりも長かったりする。
その時、手を出して自分を救ってくれる存在はない。
宗教が語って来たことと異なる「あの世」の現実は、「自らを救えるのは自分だけ」ということだ。
たった数分の出来事なのに、同じ場面を繰り返し幾度も観た。その都度、女の声が響くわけだが、その声が次第に強くなっていく。メッセージ性があるわけだ。
「死に間際の者ならともかく、いつも俺は幽霊に見られてしまう。因果なことだ」
そこですぐに気づく。
当たり前の論理だが、この私もずっと死に間際にいたから、幽霊に見られてしまうということだ。なるほどと納得する。
追記)以下は少しドキッとする話。
入院病棟から来る患者は入り口近くの空きスペースに入る。
ここはベッドごと来るので当たり前だ。
しかし、その境遇になる前は、通院患者としてベッドに横たわるわけだが、このベッドの配置は時々変わる。
患者の意思や治療上の都合によるわけだが、「程なく入院病棟に移ることになる」患者のベッドの位置はどういうわけか同じ番号だ。
北側の一番奥と、当方の右向かいのベッドに入ると、三か月経たぬうちに去ってしまう。
あとは向かいの列の右から六番目だ。
他の患者の顔触れは替わらないのに、この位置の患者だけ目まぐるしく替わる。
私は験を担ぐ方で、「十年前に死にそうになった時に着ていたパジャマ」を必ずローテーションに入れている。死地から戻った縁起のよい服だからだ。
それなら、今のベッドの位置も極力変えずにいようと思う。